横浜F・マリノスユースで育ち、2017年にはU-17日本代表の一員としてFIFA U-17ワールドカップに3試合出場した。ただトップチーム昇格年にあたる2019年2月に左反復性肩関節脱臼のケガで全治約3カ月の離脱を余儀なくされた。

同年5月に行われたJリーグ杯のV・ファーレン長崎戦で公式戦復帰とトップチームデビューを果たすも、1-3で敗戦。そこから同クラブでの出場機会を失った椿はJ1での出場がかなわないまま、ギラヴァンツ北九州、メルボルン・シティFC(Aリーグ)、水戸ホーリーホックで武者修行を続け、2023年シーズンより千葉に完全移籍で加入した。

古巣である横浜FMでの公式戦出場は2試合に留まった。

もがき続けたプロ生活

――ここまでのキャリアを振り返ると、順風満帆ではなかったのでしょうか。

「正直、今年までもがいていました。高校までは伸び伸びやらせてもらっていましたし、自分のドリブルも他の選手より抜けていた。だから『結果』なんて言われなかったし、焦ることもなかった。

でもマリノス1年目のときに左肩を脱臼して、その手術をしてからですね。復帰した試合でスタートだったんですけど、ボールを全部取られて負けたんです。その試合からチャンスをもらえなくなりました」

2019年シーズンにJ1制覇した横浜FM(写真:Getty Images logo)

――当時の心境について教えてください。

「いろいろなチームにレンタルしましたし、結局マリノスには一回も戻れなかった。自分もその評価を理解できますし、どうやったらもう一皮、二皮むけるんだろうと、毎年のようにもがき続けていました」

――当時J3の北九州に育成型期限付き移籍しました。

「マリノスからJ3に行ったら、『さすがにやれないとまずい』という気持ちがどこかにあった。結果を残して、『マリノスに戻らないと』という気持ちでいましたが、プロはどの選手もやっぱりうまいし、そこにカテゴリーは関係なかった。

その事実をまったく知らなくて、自分よりもうまい選手がいる中で、試合にもなかなか絡めなかった。それで自分の良さを見失いそうになりました」

2021年に北九州でプレーしていた椿(左、写真:Getty Images logo)

――それでも北九州では2シーズン目にリーグ戦34試合2得点1アシストを記録しました。どのような点を変えたのでしょうか。

「変えた部分はあまりないかもしれません。とにかくドリブルを磨き続けて、なんとか自分の良さは見失わないようにした。あとは小林伸二さんが監督だったので、ひたすら気持ちのことを言われました。北九州では、精神論やメンタルをめちゃくちゃ鍛えられました」

――メンタルが強い選手だと思っています。

「めちゃくちゃ弱かったですけど、いまはメンタルが強くなりました。まず、そもそもの自信が違います。メルボルンに行ってからは、メンタルを変えないといけなかったんです。

そんな選手には会話もしてくれないので、練習から強くなるしかなかった。何かトレーニングをしたわけじゃないですけど、自然と強くなりました」

メルボルン・シティでプレーした椿(写真:Getty Images logo)

――メルボルンでの暮らしは過酷だったと聞きました。

「まず会話ができないから、とてもきつかったです。もちろん準備をしていなかった俺が悪いんですけど、何をするにしても一人でした。初めてホームシックになって、最初の1ヵ月目くらいで親に泣きながら電話をしたこともあった。それくらい毎日きつかった。でもそこからハングリーになったというか、『結局はなんとかなる』というメンタルになり、そこからもっと強くなれました」

――サッカー面での苦労はどうでしたか。

「結局、どこの国でもレベルの高い選手はいるんです。正直、『オーストラリアならやれるのかな』と思っていました。でも実際はプレミアリーグでやっていた選手がいたり、逆に一緒にやっていた若い選手がプレミアに行ったりしていた。そういう選手がいっぱいいたので、自分のレベルを上げる必要があると思いました」