2位 ペレ

1958年W杯で当時17歳だったペレは決勝戦に出場した最年少選手になった。

この大会では準決勝でのハットトリック、決勝での2ゴールなど、計6ゴールを記録。W杯優勝を成し遂げ、トロフィーを母国に持ち帰った。それは通算3度成し遂げるW杯制覇のうち最初のもので、父の顔を伝った涙に答えるものでもあった。

連覇した1962年大会は怪我のために貢献は限られることになり、1966年大会は執拗なファウルに晒されたことで最後のW杯にすると心に誓った(1966年はグループステージ敗退)。

だが、彼はそれに固執しなかった。1970年大会で戻ってきたペレは4大会目の出場を果たすと、トスタンリヴェリーノ、ジャイルジーニョらとともに史上最高の攻撃陣を形成。4ゴールを決めて、3度目の優勝を遂げた。

1960~70年代には所属クラブのサントスとともに世界中を飛び回った。ナイジェリアではペレのプレーを見るためにビアフラとの戦争が2日間休戦になったほど。

ペレがナイジェリアのサッカー精神に与えた影響は大きく、彼が90年代以前にアフリカの国がW杯で優勝すると予言したとき、地元ファンはすでにそれが実現すると感じていた(まだアフリカが優勝したことはない)。

元チームメイトは「ある国の人達は彼に触れたがり、またある国では彼にキスをしたがった。 別の人たちは、彼が歩いた地面にさえキスした」と証言している。

1974年にサントスでのラストゲームをプレーしたペレは、引退の計画を遅らせてニューヨーク・コスモスと契約。彼には負債があり、経済状況を立て直すのに躍起だったため、北米への移籍を選んだのだった。

1977年にコスモスをリーグ優勝に導いた後、雨のニューヨークで引退試合をプレー。だが、それまでに彼がどれほど多くの日を輝かせたことか。