「挑戦」「責任」「安定」という3つの選択肢。選んだのは…

――八戸で3シーズン過ごされた後、J3のアスルクラロ沼津へ移籍しました。移籍のきっかけを教えてください。

「(八戸で過ごした)最後の年の夏ぐらいに先輩から『出て行ったほうがいい』と言われて移籍を考えるようになりました。出て行ったほうがいいというのは『拓也がこの先八戸にいても、来シーズンも何もなければ試合に出られるだろう。ただ拓也の向上心やサッカーに対する姿勢を考えたら、一度よそのチームに行って、ゼロからスタートしたほうが選手として成長するんじゃないか。八戸に残ることがいい、悪いではなく、サッカー選手として考えたらそっちの方がいいんじゃないか』と言われました。それがきっかけで移籍を考えるようになりました」

――そして沼津からオファーが来たと。

「2年目にJFL選抜に入らせてもらって、(選抜チーム内に)沼津の選手がいました。沼津が(Jリーグへ)上がるときに自分から『どうですか?』と聞いたこともあって、すぐオファーを出して頂けました。同時にソニー仙台(JFL)からもオファーを頂いて、(八戸に所属していた)弟はソニーへ行きました。ただ八戸に残ることも考えました。八戸では当時キャプテンをさせてもらっていて、八戸を(Jリーグに)上げなきゃと思っていました。だけど自分のサッカー人生でチャレンジしたい気持ちもありましたので、沼津へ移籍しました」

――かなり葛藤されたのですね。

「Jリーガーに憧れていたというよりも、上のカテゴリーでやってみたいというのが大きかったです。上のカテゴリーで上手くなりたい、成長したいという思いが強かったです。姉と相談して『沼津は挑戦、八戸は責任、ソニー仙台は安定』とその3つを言われて、自分で整理してチャレンジしました」

――決意を持って移籍されたんですね。

「移籍するにあたって八戸が良い成績を残したときに残れば良かったとか、沼津で出られなかったり、沼津の成績が悪くなってしまえば、よそのほうが良く見えてしまう。だからこの決断、移籍を成功に結びつけられるように頑張りたいと思っていました。(結果的に)すぐ試合に出られたので良かったと思っています」

――沼津へ移籍して良かったことは。

「Jリーガーとしての姿をお母さんに見せられたことは良かったと思います。Jリーガーは限られた人しかなれない。特別な場所とよく言われるので、そういう姿を見せられて良かったなと思います」

Jリーガーとなった菅井(※18番のキャプテン)。プロサッカー選手として自身の被災体験を多くの人に話すようになった。自然災害による被害者をより少なくするために、自身ができることを全力で伝え続けている。