天才としての驕りがあった横浜FM時代
神奈川県横浜市で生まれた和田は小学生年代から頭角を現し、横浜FMプライマリーを経て、順調に地元の雄である横浜FMジュニアユース、ユースへと歩みを進めた。
持ち前のテクニックとサッカーセンスで輝きを放っていた和田は「プロになるまでは全部うまくいってた」と幼少期から“天才”と称され、高校2年次にはプレミアリーグの名門であるマンチェスター・シティに短期留学を果たし、同クラブのレジェンドである元スペイン代表MFダビド・シルバ2世と評された。
さらに2015年には高校生年代のクラブチーム日本一を決める日本クラブユース選手権(U-18)大会で優勝。“マーシー”の愛称で親しまれた天才は周囲の期待に応えるように、トップチーム昇格をつかみ取り、順調にプロへの階段を駆け上がった。
「中学から世代別日本代表に入って、高校ではユースにも上がれた。大きな挫折をすることなく、そのままトントン拍子でプロになれました。プライドも高かったと思うし、性格的にもわがままで、自分の好きなことや楽しいことじゃないと頑張れないタイプ」と、いまでは若き日の自分を客観視できるが、当時は違った。
「俺は和田昌士だぞ」
そんな驕(おご)りがどこかにあった。
横浜FMでは出場機会に恵まれず、プロ2年目はJ2レノファ山口FCへの武者修行を決断した。一方で、小学生時代からの同級生であり、横浜FMの下部組織でともにトップチーム昇格を果たしたMF遠藤渓太(けいた、現FC東京)は、クラブを離れた和田とは対照的にJ1の舞台で活躍。念願だったトリコロールでの日々は、想像と真逆のものだった。
ライバルとの比較や思い描いていたキャリアとのギャップに苦しめられた和田は、自身の現状を簡単には受け入れられなかった。
「渓太がずっと試合に出ているのに、俺は出られない状態でめちゃくちゃ焦っていましたね。『やばい。俺は出られないのに』って。小学校からずっと一緒にやってきたからどうしても比べられていたし、それは当然のことだとも思っていました。
ただ、自分も期待値が高かった分、マリノスで試合に出られずにJ2やJ3にレンタルしていたのはショックだった。やっぱり理想の自分はマリノスで試合に出て、2、3年後には日本代表としてワールドカップに出るイメージをしていた。でも全然うまくいかなくて、メンタル的にはとても落ちていた」
期限付き移籍先となった山口ではリーグ戦17試合1得点、翌年にはマリノスへ帰還するも出番は限られ、2019年には当時J3ブラウブリッツ秋田へのレンタルを経験した。
親友でありライバルの遠藤が順調にキャリアを重ねていく中、和田はマリノス出身者としてのプライドが捨てきれず。思うような結果を残せないもどかしさは、負の連鎖を招いた。
横浜に戻れないストレスは外部にぶつけられた。
「いままでうまくいっていた分、自分の現状を受け入れられなかった。『俺だってもっとできるのに』とか、『もっと周りがこうだったら』『運が悪いんだ』と外的要因に逃げている部分がありましたね。サッカーで消化できない部分を、プライベートで消化している自分もいた。本当はサッカーを第一に生活しなきゃいけないのに、サッカー以外のことに目が行ったりしていた時期でした」
秋田ではリーグ戦30試合4得点を残したが、シーズン終了後にマリノスでの日々は終わりを告げた。
「いま思えば、マリノスからレンタルされている20代前半のときは、心の奥底にマリノスというブランドにプライドがありましたし、もっとサッカーに捧げられたと思う。当時は落ち込むばかりで、壁にぶち当たったときにどうするかという部分や、自分を客観視する能力が低くて、メンタル的にもろかった」と、小学生時代から16年間を過ごした横浜FMを退団した。