“田中雄大”の活躍がきっかけでサッカーに没頭

滋賀県野洲(やす)市出身の田中は小学校に入学後、地元の少年サッカーチームである野洲JFCに入団して本格的にサッカーを始めた。

当初は「(気温が)暑すぎて泣いていた」と、弱さをのぞかせる一面もある少年だったが、当時テレビで見た“ある選手”の姿に感銘を受けてサッカーにのめりこんだ。

野洲高卒業後、関西大を経て川崎などJリーグのクラブで活躍した田中(写真左、Getty Images)

「ちょうど、僕が小学1、2年ぐらいのときに野洲高が(全国高校サッカー選手権大会で)優勝しました。そのときにチームキャプテンをしていた人が、あの田中雄大(ヴィッセル神戸サブチーフスクールコーチ)選手。もう引退されましたけど、同姓同名の選手が大舞台で活躍されている姿に感銘を受けて、『僕もサッカーに情熱を持って頑張りたいな』と思うようになりました」

Jリーグ史上『四人の田中雄大』の一人でもある当時野洲高の主将を務めた田中は、3バックの一角として2005年の選手権に出場。高い技術力を誇り、観客を魅了した『セクシーフットボール』で大会を席巻し、同校史上初の選手権優勝に貢献したDFの姿に、田中少年はくぎづけになった。

練習後に撮影に応じてくれた田中

小学4年までは同姓同名のレジェンドと同じDFとしてプレーしていた田中だったが、小学5年のときに、腰を疲労骨折。その後試合に出られない時期を過ごしたが、コーチから「キーパーをしないか」という提案を受けて、小学6年のときにGKへポジションを変更した。

野洲JFCでは、二つ上の学年に現在J1川崎フロンターレでプレーしているMF山本悠樹がいた。

山本とは実家が近所だったこともあり、よく一緒にボールを蹴った仲だった。

中学進学後も同じチームに所属し、田中は中学1年のときに3年の試合に出場していたため、ここでも二人は共闘した。

福島の背番号41は「困ったら山本くんにボールを出すぐらいの気持ちでプレーしていました(笑)。それぐらい存在感がありましたし、何でも助けてくれる選手でした」と、際立っていた山本のプレーを回想した。

川崎でプレーする山本。小中学生のチームで田中とプレーした(Getty Images)

当時から「勉強もサッカーも一番になりたい」「文部両道でやっていきたい」と考えていた田中は、関西屈指の進学校である膳所(ぜぜ)高に進学した。

同高は名門大学へ毎年多くの合格者を出しているだけでなく、過去に上野展裕(のぶひろ、前ベトナム1部ビンフォックFC監督)、矢島卓郎(川崎アカデミーサポートコーチ)らJリーガーも輩出している。

また、実家がある野洲市には野洲高、同市に隣接する草津市には草津東高など、サッカーの強豪校があり、田中はそれらの高校の存在が刺激になっていたという。

「僕も中学生のときは県のトレセンに選んでいただいていたので、その友達がサッカーの強豪校に行っていました。だからこそ、『膳所でもそういったところと戦って勝てるんだ』というのを証明したい。そういった結果を残したいと思っていたので、意識はすごくしていました」と高校サッカー部時代を振り返った。

福島のエンブレムに手を置く田中

膳所高サッカー部は、学業でもチームメイト同士で競争しながらお互いを高め合った。

当時京都大現役合格を目指していた田中は「(勉強の)工夫をしたというより、サッカー部がすごく(学業の)成績も良くて、みんなで競い合っていました。そのために何ができるかというところで、時間を無駄にしないために電車の移動時間に単語帳をやったり、塾に行って予習、復習をやるとか、そういった生活をちゃんとする。サッカーをしていない時間は、極端に言えば全部勉強するぐらいの気持ちで、時間をうまく使うことを意識してやっていました」と、チームメイトと切磋琢磨して受験勉強に励んだ。

最終的に、当時の膳所高サッカー部3年は、田中を含む6人が現役で京都大に合格した。