ガーナ代表の可能性もあった
2つのルーツを持ちながら日本で生まれ育ったタビナスは日本代表入りを目指していたが、母の母国で戦うことを決意した。外国人として生きる難しさも経験したが、自身を助け、支えてくれた人たちにはいまも感謝している。
――キャリア初期は日本代表を目標とされていましたね。
最初は自分の中にフィリピン代表という選択肢はなくて、「日本代表になってワールドカップに出る」ことが1番の目標でした。そのために20歳になったときに帰化申請をしなきゃいけませんでした。実際にそれを知ったのが17歳のときでした。
U-17日本代表の打診が(高校の)監督のもとに来て、「国籍はどうなっているの」と聞かれたときに、「俺はフィリピン人です」と話しました。そこで「20歳になったときに帰化しなきゃいけないんだな」と初めて知りました。
川崎に入ってから帰化(申請)を手伝ってもらったんですけど、どれくらいかかるか分からない。半年で行けるかもしれないし、逆に5年かかるかもしれないという。キャリアで大事な時期の23~25のときに代表に…。はっきり言ったら忍耐がなかったし、そのときはガンバ(トップチーム)で試合にも出られてないときにフィリピンサッカー協会から「フィリピン代表になって試合に出ないか?」と言われました。
そのときに「それでも評価してくれている」、「それでも呼んでくれようとしている」ので、フィリピン代表に行くことは一つの選択肢になるんじゃないかと思い始めました。水戸に行ったときに正式に話があって、あのときはワールドカップ予選かな。ワールドカップ予選で中国開催だったんですけど、それがコロナでカタール開催になったときに行きました。それが初めての試合(対中国戦)ですね。
――お父さんの母国であるガーナ代表の選択もありましたか。
パスポートの問題はなかったので、(ガーナ代表選択も)ありました。でも僕はガーナに行ったことがなかった。日本からガーナまで行くのに2日くらいかかります。行ったことがないし、その国のことをよく知らないから正直思い入れみたいなのがあまりなかった。
逆にフィリピンは毎年帰っていましたし、家族もフィリピンにいます。親戚、兄貴もいます。フィリピンはすごく思い入れがある国というか、『自分の帰る場所』は日本でもあり、フィリピンでもあると思っています。