――ここからアカデミー時代について伺えればと思います。まず山川選手は尼崎市出身です。すぐ隣が大阪府、しかも万博も近い場所だと思うのですが、ガンバ大阪との距離感とかは子供の頃いかがでした?
そんなにプロの試合を多く観に行ったわけではないですけど、サッカーの試合を観に行くとなったら親の影響もあってヴィッセルよりもガンバの試合を観に行くことが多かったですね。
――中学校からヴィッセル神戸のアカデミーに入りました。神戸のアカデミーは中学から寮生活ですか?
中学生の時は実家から通って、高校から寮生活でした。
――実家から通うのは大変だったのでは?
中学生の時の練習場は王子公園という場所で、三宮より少し大阪側でした。僕は電車で通っていたのでそんなに大変ではなかったです。
――神戸のアカデミーで6年間を過ごしてどんなところに良さを感じました?
当時からやりたいサッカーが統一されていて。アカデミーを通して「この監督だからこう」というわけではなく、チームとしてやりたいことがハッキリしているというのがありました。僕も年齢と共に学年も上がって、やることが統一されていたので迷いなく成長できました。
話を聞く感じだと今はもっとバルセロナの人やスペインの人が入ったりして色々変わっていると思います。より洗練され、実際それがジュニアやジュニアユースなどで結果として出ているんじゃないかと思います。
――同期には藤谷壮選手や中坂勇哉選手がいて、彼らは高卒でトップ昇格を選びましたが、山川選手は昇格が内定しながら大学進学を選ばれました。当時どうしてそういう決断をされたんですか?
まず僕自身、プロに上がれるとはまったく思っていなかったんです。大学進学をずっと考えていて。夏くらいの段階で大学の練習参加がもう終わって、大学に行けるかどうかみたいなタイミングで昇格できるという話をいただきました。
やっぱり素直に嬉しくて、その場で言ってはいないんですけど僕の中でも「昇格したい」という気持ちがありました。
ただそこから色々な人に相談させてもらって。これまでのコーチや親にも相談に乗ってもらい、少し冷静になって考えた時に、当時の自分の実力ではプロの世界で活躍できる自信がなくイメージも湧きませんでした。
そういう覚悟がなかったので「まだ早いかな」と思ったのと、もう一つ、サッカー選手の後に教員をやりたいという目標がありました。「教員免許を取得できるサッカーの強い大学」ということで、筑波大学へ行きたいと思いました。その2つですかね。