家族は決して裕福ではなく、父親も母親も工場労働者で、最低賃金よりも少しだけ高い収入しかなかったという。

「ディオゴは我々両親が直面していた困難を見てきた。そして、我々も家族の限界を決して隠すことはしなかった」と父親のジョアキンは告白したという。

「二人の息子がサッカーをしていて、そのためのお金を支払う。それは我々にとって決して楽なことではなかったが、ディオゴは全く何も求めることがなかった。

ブランド物のスパイクが欲しいと頼まれることもなかった。彼はそれが不可能だと分かっていたし、それを理解する感受性を備えていたんだ」

また、元気が有り余っている16~17歳の頃も決して夜遊びに出かけることなく、サッカーとゲームのみに時間を費やしていたとか。

「10代の頃、誕生日以外に夜遊びをしたところを見たことがない。外食もほとんどしなかった。むしろ『たまには遊びに行きなさい』と言ったほどだ。

ただ、ディオゴにとっては午後にサッカーがあって、夜にプレイステーションで遊んでいるだけで十分だったんだね。我々は苦労して初めてプレイステーションを彼にプレゼントしたんだが、別に彼がそれを欲しがっていたわけでもなかった」

ジョアキンによれば、少年時代にサッカーの試合から家に帰る間は車の中で一言も喋らず、数時間経ってから冷静に物事を振り返っていたとか。

内省的で謙虚な態度を崩すことなく、パッソス・フェレイラ、アトレティコ・マドリー、FCポルト、ウォルヴァーハンプトン、そしてリヴァプールと着実にキャリアを重ねてきたディオゴ・ジョタ。

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悲劇的な事故でそれは短く切り取られてしまったものの、彼が残したプレーの数々はこれからもサッカー界に生き続けていくことだろう。

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