千葉県の強豪校での学校生活は「毎日が刺激的」

行方は上海での生活を終えて日本に帰国後、中学進学とともに地元千葉県のクラブチームであるFCクラッキス松戸に入団した。

個々の高い技術に基づいた『南米スタイル』のサッカーを目指している同クラブで、行方は足下の技術を磨いた。

そして中学校卒業後、千葉県内の強豪校である柏日体高(現・日体大柏高)に進学し、レベルの高い環境に身を置いた。

「とにかく楽しかった」とほほ笑む行方に、同校での3年間を振り返ってもらった。

──柏日体高時代はどのようなプレーヤーだったのでしょうか。

「主に左サイドハーフでプレーしていました。(左サイドから)中央にカットインしていくようなドリブラーでしたね。いまはぜんぜん違いますが(笑)」

──高校時代の思い出を教えてください。

「学校生活も部活も、とにかく楽しかったですね。スポーツ科だったので、クラスの半分ぐらいがサッカー部のメンバーで、他の部活の人たちもトップアスリートたちでした。サッカー部のレベルは高く、いい環境で(競技が)できていたので、1人のサッカー選手として成長できたと思います。

高校3年のクラスメイトに、柏アカデミーの猿田遥己(はるき、GK、柏)と、宮本駿晃(としあき、DF、ドイツ4部ブレーマーSV)、田中陸(DF、J3・SC相模原)、鯰田太陽(なまずた・たいよう、MF、関東1部エリース東京FC)がいて、毎日が刺激的でした」

──同じクラスに柏アカデミーの選手がいた環境で、ご自身も「Jリーグを目指したい」という想いは強かったのでしょうか。

「もちろんです。身近にいた4人のうち3人(猿田、宮本、田中)が高校卒業と同時に(柏の)トップチームに昇格したので、それが1番刺激になりましたね」

クルムカチでプレーする行方(本人提供)

海外トライアウトで不合格が続くも、バルカン半島でプロサッカー選手に

行方は2018年3月に日体大柏高(2016年4月に校名変更)を卒業したが、この時点で進路は未定であり、欧州へ数回トライアウトを受けに行った。

しかし、なかなか契約には至らず、入団が決定した当時クロアチア5部のNK BSKベリツァ(以下ベリツァ)への合流は2019年3月だった。

高校卒業後の日々やクロアチアでの選手生活、さらにその後、モンテネグロ2部へステップアップを果たした経緯について、行方が話してくれた。

──高校卒業後は欧州に渡ってトライアウトを受けていたそうですね。

「最初は2018年の1月にマルタへ行きました。(高校の)卒業式に出席するために1度帰国して、6月にもう1度マルタへトライアウトを受けに行きました。2019年の1月にスウェーデンに行きましたが、そこでも契約できなくて。もうどこの国も移籍市場が閉まっていて、たまたま知り合いの伝手で『クロアチアがまだ最後のマーケットが残っている』という話をもらって、そのままクロアチアに行きましたね」

──周りは進路が決まっている中で、焦りなどはありましたか。

「いや、実は日本の大学も受かっていて(笑)。両親と話し合って、大学に必ず受かることを条件に海外(トライアウト参加)を了承してもらいました。それに、身近でレイソル(のトップチーム)に上がっている友人を見て、『やっぱりプロになりたいな』という想いが強かったし、変な自信もあったので、別にプレッシャーはなかった気がします」

──ベリツァでは元ベガルタ仙台差波優人(さしなみ、現仙台アカデミースカウト兼アカデミーコーチ)選手とチームメイトでした。同じチームに日本人の先輩がいるという部分で、差波選手の存在は大きかったですか。

「大きかったですね。優人くんはJリーグも経験していますし、歳も離れていて、同じ家に住んでいたので、いろいろ面倒を見てくれました。僕はそのとき20歳ぐらいで、(差波選手から)『とにかく若いうちは試合に出て、とにかく結果を出す』ということをずっと言われていました」

ベリツァではJリーグでのプレー経験があるMF佐波優人(写真左端)とともにプレーした行方(写真右端、本人提供)

──クロアチアでのプレーを経て、当時モンテネグロ2部(今季1部)のFKモルナル・バールにステップアップされました。同クラブへ移籍した経緯を教えてください。

「一度日本に帰ったタイミングで日本人の代理人の方と知り合って、その人のつながりで(モンテネグロへ)行きました」

──なかなか試合に出られない難しいシーズンだったかと思いますが、改めて振り返ってみて、どのようなシーズンでしたか。

「(2020年)1月にチームに合流して残りハーフシーズンという時期にコロナ(新型コロナウイルス)が流行ってしまって。その影響でリーグ戦の再開も遅れて、そもそも数試合しか開催されなかったんです。その後、(リーグ戦が)打ち切りになってしまって、加えて自分もポジションを取れていない立場だったので、難しかったですね。

試合に出られなかったという自分の実力不足もありますが、『とにかくここから這い上がろう』という第一歩のときに、サッカー以外のこと、コロナの影響があったので複雑な気持ちでした。ただそのときは『それはもうしょうがないな』という感じで割り切りました」