――鹿島の指揮官を退任された後、ハノイFC就任に至った経緯について教えてください。

「12月頭に鹿島を離れて、色々なクラブと話をする中で正直、このタイミングで東南アジアに出ていくというのは、当初あまりピンとこなかった。ただ、日本のクラブと話しては立ち消えとなるようなことが幾つかあり、その中で僕が日本のクラブにすがりつこうとしているような感覚に陥るときがあって…。指導者業界のリアルをそこで感じました。

選手と違って指導者は、基本的にはヨーロッパに渡れない。それ故に一番レベルが高いところにJリーグがあって、すごく狭い中で椅子取り合戦をしている。そう考えると、僕たち指導者はとても不利な立場にあって、この構図が日本の指導者業界を息苦しいものにしている気がしました。

僕はまだ41歳ですが、僕のような指導者が海外に出ていかないと。指導者はヨーロッパにはなかなか渡れないので、アジアということになりますが、広い世界の中で日本を捉える感覚でいないと、指導者業界も僕自身の感覚も変わらない気がしました。そう思うに至ったころ、ハノイが早い時期から興味を持って具体的なオファーもしてくれていたので、それならば行こうと決めました」

鹿島時代の岩政監督

――これまで解説者としてベトナム代表の試合を観ていたかと思いますが、当時のベトナムサッカーの印象は?

「やはりパク・ハンソ監督の色が濃くて、サッカー自体も勤勉に戦ってカウンターを狙うというイメージ。どんどん若い選手が台頭していて、4、5年前に解説者をしていた当時はベトナムサッカーにとても勢いがあった時代なので、そういう印象が強いですね」

――ハノイFC監督就任会見で、思った以上にチームとして積み重ねてきたものを感じているとの発言がありました。具体的にはどんなことですか?

「ボールを動かすということに関しては、色々なデータを見ても、また実際にしているサッカーを見ても、それができる選手たちが揃っていました。ポゼッションのスタイルを比較的得意とするタイプが多くいて、それプラスで、切り替えのフェーズの意識を持っている。おそらくこれは、僕が来て新しく言われたことじゃなく、以前から積み重ねてきたものがあるんだろうな、というのを初日トレーニングで感じました。

ただ、その繋がりの部分で、どのように攻撃することが守備の準備になり、どのように守備することが攻撃の準備になるのか、そこにどのように選手が配置されて繋いでいくのか…。これは監督の仕事ですが、そこをどう伝えるのか試行錯誤しています。

ポゼッションをするということは、カウンターよりも局面での判断が難しくなるので、どうすれば自己満足のポゼッションで終わらず、勝つためのポゼッションに昇華するのか。これは僕が指導者としてトライしたかったことでもあるし、ハノイFCがトライすべきことでもあります。ベトナムサッカーで改革を起こすには、それをやり切ること。そのための土壌が思っていた以上にハノイFCにはあります」