ヴィトーリオ・ポッツォの画期的戦術「メトド」

1920年代までサッカーのシステムの基本はいわゆる「逆ピラミッド」型の2-3-5、あるいはそれを東欧でカスタマイズした2-3-1-4であった。

ヴィトーリオ・ポッツォが考案したのはいわゆる「メトド」システムだ。中盤のサポートを高めるため、「3」の位置を下げ、さらに前の5枚から2枚を中盤に落とした。

これによって2-3-2-3のフォーメーションが形成され、 より固いディフェンスと効果的なカウンターができるようになった。この形はほぼ現代主流となっている4-3-3、4-1-2-3と酷似しているものだ。

パワーとスピードを生かしてくる2-3-5のシステムよりも、よりポゼッションしやすく守備がやりやすいため、戦略的かつ技術的なプレーを生かすことができたという。

ヴィトーリオ・ポッツォはなぜ語り継がれないのか

それほどまでに伝説的な名将でありながら、サッカー界であまり普遍的に知られた名前ではないヴィトーリオ・ポッツォ。

その理由は政治的なもの。1921年にベニート・ムッソリーニらによって創立された国家ファシスト党が政権を握ると、ポッツォが率いたイタリア代表チームもその影響下に入ることに。

ポッツォ自身は特にファシスト党員でもなく支援者でもなかったとのことだが、チームはファシスト式の敬礼をし、トレーニングキャンプも強いナショナリズムに彩られたものだったという。

また、1934年の自国開催のワールドカップではファシスト党による審判への圧力があったと言われており、いくつもの不可解な判定があったとも伝えられる。

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そのため、政権が崩壊した第二次世界大戦後には「ファシスト党に協力した」として批判を受け、イタリアサッカー界から追放されることになったのだ。

もちろんFIFAやイタリアサッカー連盟も彼の功績を大々的に宣伝することはできず、むしろファシスト党の影響力との距離を置かなければならなかった。

したがって、世界で最も尊敬されて然るべき名監督ヴィトーリオ・ポッツォは、英雄として祭り上げられる存在にはなれなかったのだ。

そして、指導者業から引退したあと、ヴィトーリオ・ポッツォはピレリで働きながらLa Stampaのジャーナリストとして活動。そして1968年に行われた欧州選手権でイタリア代表が優勝するのを見た半年後、82歳でこの世を去ったという。

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そのヴィトーリオ・ポッツォの記録に84年ぶりに並ぶ可能性があるディディエ・デシャン監督。歴史の影に隠れた名将の後に続くことができるだろうか。

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