カンテの両親は1980年にマリからフランスに渡り、エンゴロは7人の兄弟とともにパリで育った。ユース時代に彼を指導したヴォイティナ氏は彼の人となりについてこう話しているという。
ピオトル・ヴォイティナ(シュレンヌ・ユースコーチ)
「エンゴロは何も話さないので、彼が言葉を聞いているのかどうか、我々を理解しているのかどうかがわからなかった。
我々は彼と話した。トレーナーやフィットネスコーチが彼に助言を与えた。エンゴロはこちらを見ていたが、理解しているのか、聞いているのかはわからなかった。
しかし、それからの数週間で、彼は全ての助言を聞いていたことが判明したよ。
私は彼に言っていた。『夏休みで2ヶ月間自由だ。エンゴロ、左足で50回、右足で50回、ヘディングで50回のリフティングをしよう』と言った。彼は2ヶ月後にはもう出来ていたよ」
「彼はPSGには関心を持たれなかった。ただ、PSGだけではない。14~15歳までに数回トライアルは受けた。ロリアン、レンヌ、ソショーなどね。彼らは『我々も他の選手のほうが良いと思うね』と言った。
本当に小さかったからね。フランスでは12~13歳からパワーやフィジカルを求めている。そしてエンゴロは言ったんだ。
『まあ、そのレベルになければ、獲得されないのは普通だよ』と」
目立つプレーを得意としていないカンテは、トライアルでもいつもの地味な仕事をしたため、スカウトの目に留まらなかったという。
その後、シュルネスの会長ジャン・ピエール・ペリネールの息子がブローニュのトライアルを受けた際、エンゴロも同行したことが大きな転機になった。
ジョルジュ・トゥルネー(ブローニュ元監督)
「エンゴロは何度も拒否された経験を持っていたね。彼がそんなことを話すのを見たことはないが、かなり苦しんでいたはずだよ。しかし、本当に決定的な選手だった。
そして、彼が練習に小さなスクーターでやってくるのを見て、ちょっといたたまれなくなってしまったね。まあ、これも彼は何も言わなかったが。
チームメイトは徒歩かスクーターで彼が来ているのを見て、『エンゴロ、送っていくよ。どこに住んでいるんだい?』と言った。ローテーションを組んで、いつもエンゴロを拾っていったんだ」
3部のブローニュで頭角を現したエンゴロは、2部のカーンへと引き抜かれた。ようやく彼はスクーターではなく車を買おうとしたとのことだが…。