「チャレンジシステム」や「ゴール判別システム」とは何が違うのか?
試合の中で審判が判断するのは『WH』である。つまり、『What(何を判定するか)』、『How(それがどうだったか)』だ。
単純に言えば、それらの判断を審判以外にも任せることによって説得力を高めるのが機械判定だといえる。
まず、サッカー界で先に導入されて成功を収めたゴール判別システムについて考えよう。この場合、
- 『What』:機械が判断する
- 『How』:機械が判定する
ゴールラインを割った変わっていないかの場面で自動的に機械が動き、そして明確な判断を下す。よって、『独立している』。
そして、テニスやバレーボールなどで成功を収めた「チャレンジシステム」を考えよう。この場合、
- 『What』:選手かコーチが判断する
- 『How』:機械が判定する
審判の判定に疑問が持たれる場面において、選手かコーチがそれに異議を唱え、機械の判断を要求する。これも権限は一切審判には与えられておらず『独立している』。
一方、現在のVARについて言えば、
- 『What』:審判が判断する
- 『How』:審判が判定する
VARで判定する『What』については、「試合を決定付ける場面での誤審を避ける」と定義されており、実際には運用ルールがある。
しかし、どこでビデオ判定が使われるのか、そして使われたのかをリアルタイムで判別できるのは審判だけだ。「決定的」というのも、どこからどこまでが該当するのか?さらに、選手やコーチは「その場面が映像で判断されたのかどうか」が分からない。
また、結局機械的に判定するのではなく「ビデオを見ている副審が見る」のだから、審判団が全てを決めていることに全く変わりはない。
もしテニスで“チャレンジするかどうかの判断が審判に任されていたら”どうだろうか?結局のところ、
「なぜこの場面をビデオ判定しないのか」
という抗議に変わるだけだ。抗議の矛先をビデオ副審にすり替える効果しかない。
要するに、現状のVARは審判団から「権限が何も独立していない」状態なのだ。これでは、「正しい判定」は下せても、「正しいと説得できるだけの判定」にはなり得ない。
まるで三権分立が機能していない独裁政権のようである。