局所支配と波状攻撃―宗教的で理論的なゼーマニズムの旅路。
チェコ人指揮官ズデネク・ゼーマンはあまりに直向きな求道者だ。宗教的にすら見えるほどの、自らの理念に対する異様なまでの執着。イギリスの推理作家ギルバート・ケイス・チェスタートンの言葉に「信仰を有する者は、殉教者たるのみならず、道化となる覚悟がなければならない」というものがある。ズデネク・ゼーマンはこの言葉にぴったり当てはまる。「タイトルが取れない」、「時代遅れの指揮官」などと様々に罵られながらもセリエBでペスカーラを躍進させてローマの指揮官に抜擢されたことからもわかるように、誰に批判されようともひたすらに突き進む姿勢。彼には何が見えているのか。そして、本当にゼーマニズムは「机上の空論な理想主義」であり、「現代フットボールの前に敗北した」のか。今回はローマでの解任に繋がる、「ゼーマニズムの敗北」について筆者の意見を書き綴っていくことにしよう。
多くの媒体で報じられているようにズデネク・ゼーマンに大きな影響を与えた一つの出来事が「プラハの春」であることに疑いの余地はない。イタリアにやってくるきっかけとなった、この大規模デモを伴う革命運動を行った誇り高き人々と同じ血が流れていることを考えればズデネク・ゼーマンの戦術への徹底的な信奉は半ば当然のことであるかのようにすら思える。それだけでなくサッカーを学ぶきっかけになった元ユヴェントス指揮官であり、叔父でもあるチェストミール・ヴィツパーレクからも多くのインスピレーションを得ているはずだ。良く彼の戦術は日本のサッカーメディアが作り上げた「ゼーマニズム」という言葉で表されるが、言葉ばかりが独り歩きしているような面が大きいように思える。ゼーマニズムを表す上で良く使われるのは「4-3-3」、「サイドアタック至上主義」、「攻撃的フットボール」、「ハイライン」といった単語だろう。実際ゼーマニズムは、サイドアタックを中心にしたハイラインでのサッカーであるのは間違いないので、一面的には正しい。しかし、ゼーマニズムの本質はそこにはない。否、そこにはない訳ではないのではなく見落とされているというのが私の考え方である。少し、本筋から逸れてしまうかもしれないが面白い発言がある。
「長い距離を走れなければスモールスペースでやればいい。背が大きくないのでロングボールを蹴られたらやられるというなら、前からプレスをかければいい。簡単だと思うんだけどな、俺だけかな?そんな単純に考えている奴は」
これは当時ゼーマン指揮下にあったラツィオの練習に押しかけ参加したことでも知られる「ゼーマン信者」を公言する大木武の発言である。ヴァンフォーレ甲府監督、日本代表コーチ、そして現在京都サンガFCで監督として働く大木のこの発言は、まるで理想主義のように聞こえることだろう。ここで注目したいのは「背が大きくないのでロングボールを蹴られたらやられるというなら、前からプレスをかければいい。」という部分である。これは確かに日本人について語っているから、「背が大きくないので」という部分が付加されている訳ではあるのだが、ハイラインサッカーにとってラインの裏をつくようなロングボールは勿論天敵である。つまり、どういうことか。ゼーマニズムの根幹を成す物は、実はその攻撃的サッカーではなく攻撃的布陣から生まれるプレッシングによって攻撃を持続して奔流のような波状攻撃を生み出す仕組みなのではないだろうか。下の図を見ていただこう。
ゼーマニズムの特徴となるのは、三角形で示した3人のパスワークによって生み出されるサイドアタックである。普通2人が絡むのみで終わりがちなサイドアタックにおいて非常に異質なシステムであり、WGはサイドに張り出す訳ではなく中央寄りに位置を取ることによってSBやCHが絡めるスペースを作り出す。まあ、ここまでは良くサッカー分析によって語られる部分ではある。だからこそ、もう一歩に踏み込んでみよう。
何故、この3人は非常に近い位置取りを取るのだろうか?パスをする距離が短くなるというのは、ミスが減る利点もあるが相手に取られるリスクが高いという欠点も存在している。ここで、一つ思考を進めてみると「3人が近い位置」を取る何かしらのメリットが存在しているのではないか?という部分に至るのは必然だろう。そして、これが先に大木が述べていた「前からプレスをかければいい」という部分に繋がるのである。
三角形でパス回しをするということは、奪われた時にその三角形が取り囲みやすいという点を注目できる。上の図のように、奪われた瞬間に全体が高い位置にプレッシングに出るのが本来のゼーマニズムなのである。プレッシャーをかけることによってパスミスを誘発、そこからカットして更に二次攻撃や三次攻撃が始まる訳なので「攻撃的」に見える訳だが実は守備において整備されていない訳ではないのである。こうやって見ると、ゼーマニズムの本質は「攻撃で相手を叩き潰せばいい。守備などは必要ない」という盲目的で宗教的なものではなく緻密で理論的であると言える。
これが最大限に発揮されたのが12月22日に行われたミラン戦であった。4-2で快勝したこの試合において、三角形の強烈なプレッシングで誘発した弱いパスを中盤が拾うような場面は多く見られた。特にアメリカ人MFマイケル・ブラッドリーが「ゼーマニズム」において根幹を担っていた。ミランは激しいプレッシングによってミスを連発、高いラインの裏を狙おうにも中盤が速い詰めでなかなか蹴らしてもらえない。この試合は、まさにゼーマニズムの本質が最大限に現れたと言えるだろう。では、何故これを持続し得なかったのか。一つはもちろん、とんでもない体力がこの戦術には求められるということがある。
そしてそれ以上に、ローマの選手たちの特性がゼーマンを悩ませることになる。まず、チームの柱ダニエレ・デ・ロッシである。どちらかというと中盤の底に戻ってのリスクマネージメント的なプレーが得意なデ・ロッシにとってこういった前からのプレッシングは非常に肌に合わないものなのだったのだろう。明らかにコンディションを落とすと、指揮官と衝突。移籍沙汰にまで発展してしまった。
更に、若きエースであるエリック・ラメラの好調が皮肉にも迷いを生むことになってしまう。エリック・ラメラはそのスキルと若さ溢れる積極的なチャレンジによってカウンターの中で得点を奪うことが得意な選手である。あくまで想像でしかないが、ゼーマンは次のように考えたのではないだろうか。「明らかに前からの激しいプレッシングは完成に時間がかかり、体力的負担も大きい。結果が求められる現状では速い展開でのオープンなカウンターの撃ち合いのみに集中するべきなのではないだろうか。ラメラやオズバルドといった選手たちの好調があれば、それでも十分に勝ちは望める」と。特に格下に対して、この傾向があったように思える。前線の個でこじ開けてしまおう、という安易な発想。だからこそ、タフシィディスやゴイコエチェアという速い展開を得意とするような選手が突然重用され始めたのではないだろうか。
だが、戦術が発達したセリエAはこういった甘い発想に最も厳しかった。守備を捨てたハイラインは、プロヴィンチャのFWにも自由に破られてしまい失点数が倍増。まさに「宗教的」な「信じるものは救われる。多く点を取ってくれることだけを信じて攻めるだけのゼーマニズム」になってしまったのである。
では、「ゼーマニズム」は本当に「時代遅れな前時代の遺物」なのであろうか。筆者はその意見には異を唱えたい。確かにゼーマニズムの体力消費は異常で、このシステムをシーズン通して持続させることは不可能に近い。しかし、例えばこういったサッカーに「体力回復」を目的とした時間を使うようなポゼッションを組み合わせたらどうだろう。「勝負所でこういった波状攻撃を生み出すチームはきっととんでもなく強いのではないだろうか」と言うより、バルセロナはそういった理念の下に成り立っている。「時代遅れな前時代の遺物」が実は「最先端のバルセロナサッカー」に近い。そんな皮肉のような仮説も生まれてくるのかもしれない。
実際、ズデネク・ゼーマンはトッティというファンタジスタをゼーマニズムに取り入れてくる事によって一つの大きな進化の可能性を示した。彼が無理だとしても、もしかしたらゼーマニズムの薫陶を受けた監督が近い将来世界を席巻する日があるかもしれない。異端でしかなかったバルセロナが主流にまで上り詰めたように。その時は、このチェコ人指揮官に敬意を表してこの言葉を使ってみたいものだ。「殉教者ズデネク・ゼーマンの意思は死なず」と。
※フォメ―ション図は(footballtactics.net)を利用しています。
※選手表記、チーム表記はQoly.jpのデータベースに準拠しています。
筆者名 | 結城 康平 |
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プロフィール | サッカー狂、戦術オタク、ヴィオラファンで、自分にしか出来ない偏らない戦術分析を目指す。 |
ツイッター | @yuukikouhei |
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