天才肌のプレーメーカーとして将来を渇望された元U-20日本代表MF邦本宜裕(くにもと・たかひろ、中国2部遼寧(りょうねい)鉄人)は現在、中国の地で存在感を放っている。

浦和レッズアカデミー、アビスパ福岡を経て、韓国で躍動。ポルトガル、マレーシアでの苦難も糧にして乗り越えた。

今回Qolyは邦本にインタビューを実施し、かつて『東京五輪世代のエースになる』と期待されたレフティの波乱万丈なキャリアについて迫った。

(取材・文・構成 縄手猟)

16歳で浦和トップチームデビュー「緊張しすぎて…」

邦本は2013年10月16日に開催された天皇杯3回戦J2モンテディオ山形戦にて、16歳8日という若さでJ1浦和レッズのトップチームデビューを果たした。

さらにこの試合で1ゴールを挙げるなど鮮烈なプロデビュー戦を飾り、クラブ史上公式戦最年少出場・得点記録の金字塔を打ち立てた。

だが周囲の期待とは裏腹に、当時『天才』と呼ばれたレフティは、浦和のトップチームへ正式に昇格することなく退団を決断した。

邦本は、いままであまり語られてこなかった浦和時代について口を開いた。

ーー浦和レッズユースに入団した経緯を教えてください。

「僕がまだ小学6年のとき、毎年県外に10日間の遠征に行く(中学生の)チーム(FC.NEO)に所属していました。当時の中学3年の人たちが卒業して、(僕が)中学1年になる春休みに、2年になる人たちの遠征に帯同しました。そのときに浦和レッズジュニアユース(U-15)と練習試合をする機会がありました。僕は20分くらいしか出ていなかったんですけど、そのときに(浦和)ユースを担当してるスカウトの方から『中学からレッズに来てほしい』と言われました。僕は(当時)ドリブルを身に付けたくて、それを断ったんですけど、そこからずっと気にかけてくれていました。正直に言うと、最初はユースに行くか、高校サッカーに行くかですごく悩みました。『高校サッカーにも行きたいな』とは思っていましたけど、そのときは僕の中で『日本でプレーするなら浦和レッズでしたい』という夢があったので、『(浦和へ)行こう』と決めました」

慶南FCでACLに出場した邦本

ーー中学生のときに一緒にプレーしていた方でプロサッカー選手になった方はいますか。

「FC.NEOという僕がいた地元のクラブチームでは、いまV・ファーレン長崎(J2)にいる米田隼也(DF)、ツエーゲン金沢(J3)にいる山本義道(のりみち、DF)が僕の二つ年上で、一緒にやっていました」

ーー「浦和レッズでプレーしたい」という話がありました。憧れた理由を教えてください。

「サポーターの応援がすごいじゃないですか。『あそこでプレーしたら絶対に最高だろうな』『そこ(埼玉スタジアム)でやりたいな』と思いました」

ーー浦和アカデミー同期の松尾佑介選手(FW)は、邦本選手を「レベルが違う」と言っていたみたいです。アカデミー時代の松尾選手に対する印象はありますか。

「あまり一緒に(プレー)していないので、そこまで詳しくは分かりません。スピードがあって、大学に行ってすごく活躍されて、そこからプロになったと聞いて連絡をしました。海外も経験していますし、レッズで中心選手としてやっているので、『やっぱりすごかったんだな』という印象ですね」

邦本と浦和ユースで同期だった松尾(浅野凜太郎撮影)

ーー邦本選手がトップチームの練習に参加していたこともあり、なかなか一緒に練習できなかったのですね。

「そうですね。それもあるし、ユースの中でも3年の練習と1年の練習は違うので、僕は3年の練習にも参加していた。同級生と練習する機会がまったくありませんでした。なので、そこまで松尾選手のことを分かるかと言われたらあまり分からないんですけど、いまは本当にすごい選手だと思います」

ーー高校1年(16歳8日)のときに、かつて憧れた浦和でトップチームデビューを果たしました。当時はどのような心境でしたか。

「正直、緊張しすぎて出たくなかったです(苦笑)。『(試合に)出たらどんなプレーをしたらいいんだろう』とか、悪いようにしか考えていなかったです」

憧れのクラブでのデビュー戦について「緊張しすぎた」と明かした邦本だが、この試合で挙げた公式戦出場・得点記録は、2025年5月現在も未だに破られていない。

2014年9月に浦和を退団した神童は、翌年1月に当時J2を戦っていた福岡(現在J1)に入団したが、浦和退団後の約4カ月間は無所属の状態が続いた。

次項では、邦本が福岡へ入団するまでの”空白の約4カ月間”について言及した。