セルティック時代の話

ジェフユナイテッド千葉でJリーグ屈指のアタッカーへと成長した水野。北京五輪の予選でもエース格として大活躍し、2007年には恩師オシム監督が率いる日本代表でもデビューを果たした。

そして北京五輪を間近に控える2008年1月、中村俊輔が所属していたスコットランドの名門セルティックへの移籍が決まる。

この移籍については今も多くの疑問が投げかけられている。ただ水野自身の考えは周囲の意見とは全く違うようだ。

――2008年にジェフからセルティック移籍を決断されました。その理由は?

2004年にジェフに加入して、2005年のワールドユースに出場して、そこで世界との壁を肌で感じて。

やっぱり「国内だけでやってても…」というところに当たって。そこから「海外でやりたい」という意識が生まれました。

でも当時海外でプレーしている選手は片手で数えるくらいしかいなかったし、移籍自体難しかったんですけど…そのために海外に強い代理人をつけたりだとか。

ちょうどそのタイミングで、セルティックの中村俊輔さんが活躍していて、「日本人もう一人ぐらい欲しいな」となって話をもらったんです。

その時点で「行きたい。絶対に行く」と自分の中では決めてました。もちろん周りの人たちの意見も聞いたんですけど、8割9割は反対されましたね。「まだ早い」と。

なおかつ翌年北京オリンピックがある。オリンピックの予選はほぼほぼ全試合に出て、結果も出して、「オリンピックに出てからでも遅くないんじゃない?」という話はみんなからしてもらったんですけど。

でも自分の中では、その後にそのチャンスがあるかどうか分からない話ですし、今もらったチャンスを逃したら後悔する。「成功・失敗に関係なくチャレンジしたい」って思ったんですよ。

オシムさんにも話を聞きにいって、「お前にとっては1段階2段階…いや3段階くらい本当に難しい移籍だぞ」という話をされました。

それでも僕は「やっぱチャレンジしたいです」と話をして、「それだったら俺は応援するだけだ」と言われたので、もうそれで決断しましたね。

――当時のセルティックは中村俊輔選手が王様として君臨していました。彼の存在の大きさとかは色々なところで感じましたか?

いやもう彼がいる・いないでサッカーがまるっきり変わります。

いると全部俊さんにボール預けて、組み立てて。いない試合になると本当にもうラグビーのような…ロングボール多用して、デュエルの部分のところが多いサッカーになる。

自分も試合に出るにつれ、俊さんがいればボールを預けてくれるというか出してくれるのでイキイキはできたんですけど…いないとボールが回ってこない。

中盤を飛ばされて、上を眺めてる状況は続いたりとかで難しかったです。

やっぱり近くに日本人…しかも日本代表の“ナンバー10”がいるっていうのは、自分にとって心強い移籍でしたし困った時も頼れる存在でしたね。