トライアウトでの名刺交換

秋田では主将を務め、2度のJ3制覇を経験。中盤のハードワーカーとして泥臭い仕事を率先してこなし、優れた危機察知能力でピンチの芽を摘んだ。過去に秋田を2度率いた現東海社会人1部wyvernの間瀬秀一監督も「彼は素晴らしい男です。選手としても人としても」と手放しで絶賛するほどだ。

誠実で実直な人柄、選手としても何度もチームを窮地(きゅうち)から救ってきた男の退団はサポーター界隈でも激震が走るほどの出来事だった。思うように身体を動かせない中、契約満了を言い渡されたJリーガーが集うJPFA(日本プロサッカー選手会)トライアウトが刻々と迫っていた。時間がない―。絶望と焦燥に襲われる山田はある決断をした。

――契約満了からトライアウトまでのリハビリや治療は、秋田からのサポートを受けていましたか。

一応その段階では、「チームが決まらなかったらウチでケガが治るまで…」と秋田が持つという話はありました。

――トライアウトまでの期間が約2週間でしたけど、どのような準備をしていましたか。

ずっと秋田に「来年はないか」、「もう1度ないか」という交渉をしていました。僕は代理人を付けていなかったので、自分の知り合いにお願いして、「どこかないか」と探してもらっていました。

――JPFAトライアウトでは、自身のプレー動画のURLがプリントされた名刺を関係者に配られました。葛藤はありましたか。

葛藤というか…。自分には家族がいて、子供もいて、(このままでは)路頭に迷うじゃないですか。次のチームが決まっていない状態で「どうしたらいいのか」と考えていたときは、「知り合いに声をかけてもらっているチームの返事待ちしかないのかな」と思っていました。

(あるとき)自分の奥さんが「トライアウトに行けばいいじゃん。アピールできるでしょ」と言ってくれて、「名刺を配って、自分で行動できることはないの?」と背中を押してもらえました。

確かにトライアウトへ行って、自分のプレー集(の動画URL)を名刺に載せて、配ればアピールにはなる。それを実際にやった人はいないけど、「やればいいじゃん。何でもやれるでしょ」と奥さんが言ってくれて、いざ行動に移しました。

選手会(JPFA)の方に連絡を入れて、それが「OKなのかどうか」という会議があったみたいですけど、通してくれました。コロナ禍だったので、OKが出るのか分からなかったんですけど、名刺交換ができるようになりました。

――記憶の範囲で、大体何部ぐらい名刺を刷って来場しましたか。

200枚ぐらい刷ったかな。100枚以上は刷っていたと思います。50以上のクラブと交換させてもらえました。J1からJ2、 J3、JFL、 地域リーグと幅広い人たちと交換させていただくことができましたね。

(名刺交換は)僕一人だけの力じゃないです。プロ選手会の人からもいくつかサポートしてくれました。その当時のトライアウトはフクダ電子アリーナでやったんですけど、名刺を配る場所に会場を運営している会社で働くベテランの方がいました。

(関係者を)待っているときに、その方からJ1、J2のチームに知り合いが何人かいるという話を聞かせていただけました。

それでその方と一緒に、(関係者に)声をかけてくれました。僕だけで声をかけても名刺を取りに来てくれる人もなかなかいないですから。(協力してくれた方も)大きな声を出して、一緒に名刺交換のサポートをしてくれました。

自分が行動したことによって助けてくれる方がいて、いまの僕があるのかなと。その行動によって、成功したのも僕一人だけの力じゃないです。いろんな人のサポート、支え、背中を押してくれる人たちがいて、いまの僕があると思います。本当に感謝しかないですね。

――名刺交換した方々からはどのような声をかけられましたか。

「頑張ってね」という声もありました。トライアウトは2日間あります。選手は1日の午前、午後と、どっちかだけに参加だったと思います。僕は2日間の午前・午後、午前・午後といたので、1日目で多くの方々と名刺交換する中で、2日目午後に同じ人に同じ名刺を配って、「昨日もらったよ」と言われたこともありました(苦笑)。

対戦相手で僕を知ってくれている監督や、GMから声をかけてくれる人もいました。僕が声をかけたら優しく近寄ってきてくれて、面識がなくても名刺交換をしてくれるチームの方々もいました。本当に感謝しかないです。

その後の話になりますけど、アウェイの試合が終わってロッカーからバスに移動している間に「おう!」と急に声をかけられました。知らない方だと思ったんですけど、「トライアウトのとき、名刺頂いた○○です」と声をかけてくれた方がいました。このつながりはすごいと感じましたね。