「みんなはシーズン30ゴールを期待するけれど、僕はピッチに立つことすらできない。
他人から疑われるのは対処できたけれど、自分で疑心暗鬼になるのとは違う。
そうなるとどうなるか。本当に愛してくれている人が分かるんだ。
多くの人が『結局、彼は成功しないだろうな』という感じになった。
とてもさみしかったね。インテルナシオナルではいつも過保護にされていた。
みんな何でもやってくれる。僕は怪我やフィットネス、食事について知らなかった。知る必要がなかったからね。ただプレーしていればよかった。
だから、ミランで苦しんだ時、どうすればいいのかは分からなかったんだ。
今はどんな選手も自分のチームを持っているよね。ドクター、フィジオ、フィットネスコーチ。でも、当時はロナウドだけだった。
僕は家族もまだブラジルにいたから親族すら周りにいなかった。代理人はいたけれど、いまのエージェントのように何でも面倒を見てくれるわけではなかった。
もちろん、ミランのドクターやスタッフはいたけれど、彼らは25~30人ほどの選手を見なければいけない。僕とずっと一緒にいることはできない。
ある時、アトランタで医師の診察を受けた後、バルセロナ戦でプレーしたことがあった。
飛行機で10時間移動して、1回だけ練習してね。もちろん、怪我したよ!
アレッサンドロ・ネスタは『彼はプレーするべきじゃなかった。全員いかれてるのか?』って怒り狂っていたよ。
でも、僕は理解してなかった。またやるかって感じでね」
その後、27歳でビジャレアルへ移籍したことがターニングポイントになったそう。インテルナシオナルの時のように子供ではいられないことを悟ったとか。
その後に中国の天津天海でプレーしたことについては、素晴らしい経験だったと語っている。
当時は恋人と別れた時期で自分を見つめ直すためにアジア行きを決断。イタリア1年目はイタリア語を話さなかったというが、中国ではすぐに食べ物や文化を学んだそう。自宅でご飯や麺類をつくって食べることもしていたとか。
そのうえで、「子供だったのが成熟した。サッカーにはピッチ上のことだけだなくもっと多くのことがあると理解できた。充実感を得られた」と話している。