――そこから2007年、清水エスパルスに加入されましたね。

当時のエスパルスは「大学のトップクラスが行く」クラブでしたね。

筑波大学の兵働昭弘さん、千葉大学の藤本淳吾さん。僕の下では本田拓也、辻尾真二。大学選抜のメンバーがいましたし、杉山浩太や山本真希など代表で一緒にやった選手も。なので自己紹介は必要ありませんでしたし、阿吽の呼吸がありました。

大学卒業後のまだイケイケな僕がプロの世界に入って、長谷川健太監督や田坂和昭コーチから厳しさや技術を教わりました。

静岡という街もとても暖かかったですね。サッカー王国なので、近所の人が「うちの隣の子もJリーガーになったよ」「ああ、うちの親戚もよ」というレベルで。

今も絶対に顔を出しますし、本当にいい環境、いい街で4年間やらせてもらったなと。サッカーに対する目は肥えていますけどね(笑)

――その後は浦和レッズに移籍されます。それはどのような決断で?

自分を育ててくれた長谷川健太監督が退任された時、浦和も含めていくつかのオファーをいただきました。その時、小野伸二さんや永井雄一郎さんなど元浦和の先輩方に相談させていただいたんです。

浦和から声がかかる選手は少ないし、それを手にするために頑張っている選手がたくさんいる。そのオファーがどれだけ重要なことか考えて自分で決めな…と仰いました。

サッカー選手をやっていても、浦和でやれることはなかなかないですよね。さいたまスタジアムで5万人の熱狂的なサポーターに後押しされてプレーすることも。

僕自身もチャレンジしたいな、1番日本代表への近道じゃないかな…と感じました。このチケットを使って、浦和で活躍しようという夢を追いかけて、加入させていただきました。

浦和レッズ時代、清水時代の同僚辻尾真二と競り合う原一樹
――リーグ戦ではなかなかチャンスがなかった印象ですが…

Jリーグではあるターニングポイントがありました。

名古屋とのアウェイゲームでスタメン出場させてもらったんです。ただ「とりあえずトゥーリオ(田中マルクス闘莉王)にマンツーマンな」と言われて。「僕がマンツーマンですか?」と思いながらも。

その中で大きなチャンスがあったんですよ。クロスが来て、自分がニアに入ってシュート。ただ、当時のキーパーだった楢崎さんにナイスセーブされてしまって。

それで、楢崎さんは小指を折ってしまったんですね。全然面識はなかったんですが、謝罪の電話をかけたんです。「俺、人生がコロッと変わるようなシュートを止められて、それで謝罪か…」とも思ったんですけど(笑)。

それが分岐点になってしまいましたが、学びは多かったです。まだ早かったと言われることもあるんですが、あそこで得たものがあるからこそ、この15年間やれたと思います。

あの1年がなかったら、多分どこかで終わっていました。あそこでスーパーレジェンドたちにすごく教わったので。ただ、色々教わってるのに、当時の僕には響かなかった(笑)。

――でも、今も小野伸二さんのことなど、とてもよく話されますよね。

シンジさんはエスパルスの頃ですけど、レッズだと平川さん、堀之内さん、坪井さんなど…。

「高原(高原直泰氏。現沖縄SVオーナー兼選手)は毎日二部練習やってたぞ。試合に出られなかったら、練習がどうだろうが毎日フィジカルやってたぞ」と教えて頂いて。レッズには「坪井坂」ってあるんですけど、あそこを毎日走ってるぞと。

後に「あの人たちがあれだけ言うんだから、俺はやらなきゃ」と。当時の自分には響かなかった言葉が、後にとても大事なものになりましたね。