――そんなことがあったのですね。当時から現在に至るまで、選手たちからはどんな評価がありましたか?
1985年当時、日本ではプロリーグも無い時代、JSL(日本サッカーリーグ)でミズノを使用する選手など一人もいませんでした。
高校サッカー選手権でも数名しかいなかった。そんな状況下ではありましたが、ブラジル、サンパウロではカレカをはじめ他の代表クラスの選手も、契約もないのにミズノスパイクを使用してくれていました。
それは何より、軽量、柔軟、素足感覚という彼らのマインドをくすぐるようなアイテムであったからです。アッパーのカンガルーの品質に多くの選手が驚いていたとサンパウロFCのホペイロの方から直接聞くこともできました。
そして、1986年にメキシコ大会でカレカが5ゴールと大活躍。翌1987年8月にはカレカのナポリ移籍が決まり、我々も欧州でのサッカーシューズの販売を本格化させたのです。
※記念すべき「初代モレリア」のラスト(靴型)。
1990年のイタリア大会では、ブラジル代表の実に15名の選手がミズノの「モレリア」を履いていました。その影響で、90年代のブラジル国内では多くのトップチームでミズノの「モレリア」が使用されていました。
当時おそらくブラジル全国選手権でのトップシェアであったと思います。今でもブラジルでのミズノブランドは日本以上に認知されたブランドとして認められています。
欧州においても、ナポリでのカレカの活躍もあり、我々はその後、イングランド代表のキャプテンやイタリア代表の選手とも契約を結び、英国とイタリアでは特に販路を広げることに成功しました。
日本国内においては、1992年と1993年に東京で開催されたインターコンチネンタルカップ(通称トヨタカップ)を連覇したサンパウロFCの多くの選手が「モレリア」を履いていたことから、「モレリア」のブランド認知が急激に高まり、1993年のJリーグ開始と共に日本でのミズノブランドの確固たる地位を得ることとなりました。
ちなみに、昨年末から今年にかけて開催された高校サッカー選手権でのモデルごとのトップシェアも「モレリア」シリーズのアイテムでした。