ボヤン・クルキッチ
「代表チームに行くことが怖かった。そこで起こることによるリスクが怖かった。多くの人々に囲まれることが怖かった。この状況に直面するだけの強さは、自分の中にはなかったんだ。
心苦しかった。多くの若い選手はEUROに行くことを望んでいる。しかし、僕はそれができなかった。
アラゴネス監督は求めているものを伝えてきた。僕はカルレス・プジョルとも話した。
メディアは『ボヤンを代表チームに呼ぶ』と伝えていた。しかし、彼は『NO』と言った。人々はそれが何だったのかと話題にした。
僕はそれに傷ついた。自分はTV3のインタビューにおいて、『厳しい年の後だから休養が必要だ』と伝えた。
代表チームで練習したあとの週末、ムルシアへ試合のために行った。そこでファンは僕を侮辱し始めた。感じたことのすべてをぶつけてきた。
これが、とても複雑な状況の始まりだった。
シーズンが終わった時、僕はすべてを止めた。休暇へ行き、バルセロナから姿を消した。誰も周りにいない。フォルメンテラ島で、僕は周囲から自分を隔離した。
すべての物事から離れて、休息をとった。6月から薬を段階的に減らし、中旬には完全にやめた。
母に言ったことを覚えているよ。『ママ、この病気は永久に終わらないのかい?』と。
彼女は何も答えなかった。僕は何が起こるのかわからなかった。しかし、もっと強くなれると確信していた。
この決定を後悔することはない。とても苦しいものだった。限界だった。5ヶ月間、毎日、24時間ずっとめまいに襲われることは誰も想像できないだろう。
ある時、僕は朝起きてスッキリしていた。それまではアルプラゾラム(向精神薬)がなくてはならなかったのにね。
あの時は、僕は代表のことは考えられなかった。新しいチームメイトの事も、EUROのプレッシャーのこともね。それに対処する準備ができていなかったんだよ」
元「天才」ボヤンが激白、壮絶な「心の病」との死闘
Text by 石井彰(編集部)
カズに憧れて全身赤のスーツを買ったことで校内一の人気者になったが、中身が伴わず一発屋で終わったというエピソードを持つ島根県出身のエディター。その影響か赤いチームを好み、ヴァランシエンヌ、レイションエス、ノッティンガム・フォレストなどを応援している。
RELATED TOPICS
2014年にボヤン・クルキッチがストーク・シティへ移籍した際、多くの人がその決断に驚いた...
今季のプレミアリーグで好調な戦いを見せているストーク・シティ。その攻撃を牽引している選手...
9月28日、『Mirror』は「ストーク・シティに所属しているスコットランド代表MFチャー...
4月2日、FIFPro(国際プロサッカー選手協会)は「現役サッカー選手の26%、引退した選...