J2得点ランキングトップタイ(V・ファーレン長崎MFマテウス・ジェズスとともに10得点)を走るブラウブリッツ秋田FW小松蓮は、J1王者ヴィッセル神戸に完全移籍を果たした。

これまでリーグ戦10得点をマークし、圧倒的な空中戦の強さと豪快な左足でゴールを重ねてきた。

今回神戸へ移籍する点取り屋にQolyはインタビューを実施。

秋田が誇るストライカーのこれまで、新天地への決意を聞いた。

(取材・文・構成 高橋アオ)

大学進学、決意のプロ転向

J2得点ランキング首位に立つ小松は、決して順風満帆な軌跡を歩んでこなかった。

高校時代は松本山雅U-18に所属し、大型レフティとして大きな期待を受けていたが、トップ昇格を果たせなかった。

――松本U-18を卒団してから、産業能率大に進学された経緯を教えてください。

「当時、大学にまったく興味がなくて、大学に行きたくありませんでした。『高卒でプロになる』という目標を中学くらいから掲げていたので、そのために松本(のアカデミー)に入ったところもあったんですよね。大学(進学)は考えていませんでしたけど、その中でクラブにお願いをしてもらって、アスルクラロ沼津とツエーゲン金沢の練習に参加させてもらいました。

そのときに吉田謙さん(当時は沼津、現秋田)と(練習参加で)お会いしました。ただ両方ともダメで、大学に切り替えようとなったときに、一番最初に声をかけていただいたのが産業能率大でした。産業能率大には、『小松選手がプロ入りにチャレンジする12月までは待つから、全部ダメで大学進学を考えたときに来てほしい』と言っていただいた。大学も他のチームからいろいろと(話が)ありましたけど、どこに自分が行きたいかを考えたときに、一番熱量高く声をかけていただいたところに行きたいと思っていました。純粋にうれしかったので、産業能率大を選びました」

――アカデミー時代は絶対的な存在だったと記憶しています。トップチームに昇格できなかった際に抱いた思いを教えてください。

「もちろん昇格したいという気持ちは当時ありましたが、練習参加には行っていて、『まだまだ通用しない』と思う部分も多かった。そういう部分では『トップに上がれないのも仕方がないか』と思うときもありました」

――大学サッカーはいかがでしたか。

「当時の産業能率大は県リーグだったので、『すぐ試合に出て活躍しよう』と思っていました。産業能率大のメリットとしては、湘南ベルマーレの練習参加に行けたり、練習試合が多く組まれるところが魅力の一つでした。松本山雅のトップには上がれなかったから、『そこでアピールするぞ』と思いながら行ったことを覚えています。ただ実際に行ってみると、当時産業能率大は(競技に)力を入れ始めた段階で、すごくいいプレーヤーが全国各地の強豪校やユースから集まっていました。僕自身、松本山雅でずっとやり続けて、外に出たこともあまりなかったので、そこの差を痛感することになって『意外と大変だな』と思ったことはいまでも覚えています。

入部したのは大体2月くらいと早くて、4月くらいには世代別の日本代表の候補に呼ばれることになりました。正直、まさかの招集だったので、自分も『いい経験になるだろうな』と思いながら参加しに行って、『どうなんだろう』というイメージがつかなかったので…。(そんな状態)で行ったんですけど、そうしたら意外とやれた。『この中に入ってもぜんぜんいけるな』と感じて、そこから世代別の代表に毎回呼ばれるようになりました。それと同時に自分のレベルが引き上がったので、大学の方でもずっと試合に出るようになりました」

AFC U23アジアカップに臨むU-21日本代表に招集された小松(右、Getty Images)

――当時の世代別代表のチームメイトは東京五輪世代。すさまじいメンバーでしたね。

「いま代表に入っている選手で二つ上の早生まれだと、板倉滉選手、中山雄太選手。(一つ上が)三笘薫選手、旗手怜央選手、(同期が)田中碧選手ですね」

――現在はプレミアリーグやブンデスリーガで活躍されている選手もいますけど、刺激を受けましたか。

「当時は彼らに刺激をあまり感じていないというか、思っていませんでした。どちらかと言ったら、彼らの中でやることが精一杯というか、必死でした。ただその中でやれている自分もいたので、だからこそ1年でプロに行きたいという思いが強くなりました。

彼らの中にはプロで活躍している選手たちもいたので、一緒にやっている中で、『早くプロにいってプレーしたい』という思いがあったので、『もうすぐに(大学を)やめて(プロに)行こう』と思いました」

――大学進学から1年後には松本からアプローチがかかりました。大学からプロ転向の経緯を教えてください。

「『プロに行きたい』という思いがあったので、そこも大学側といろいろとありました…。(授業料など)全額免除で入学していたので『やめる』という選択もすごく難しくて、ただ最終的には僕の気持ちを汲んでくれました。僕はもともと松本山雅に帰ると決まっていなくて、(大学を)やめるのが先だったんです。そのとき、いまの代理人が付いていたので、やめてからいろいろなチームに練習参加して『どこか入ろうか』という。その中で呼んでくれるクラブもあったので、練習参加しようと思っていたんですよ。

まず大学をやめるのもすごく時間がかかったところがあるのと、その過程で1年で大学をやめてプロに行くことは当時すごく難しい状況でした。いまでこそ多くなっていますけど、当時はまったくいなかったので、デリケートな話だったんですよ。

それで一番いい形というか、いろいろな物の見方を大人の方たちにしていただいて、『これが一番いい形なんじゃないか』というのが松本山雅に入ることだったんです。当時も松本山雅が僕を獲りたいかはまったく分からないというか、多分ほしくはなかったのかなと思っていて…。

当時プロになって何年目かのシーズンが終わった後、クラブとの面談で『別に獲りたくて獲ったわけじゃない』という話をされたりもしたので…。1年目はまったく試合に出ていなくて、ゼロ試合でしたからね。そのときの松本山雅は強くて、フォワードも飽和状態だった。そういう意味ではそこまで僕を必要とはしていなかった」

――あのときは高崎寛之さんがいましたね。

「ヒロ(高崎)さん、永井龍くん、ミシ(三島康平)くん、ヤマ(山本大貴)くんがいて、ジネイが夏から入ってきました。

そのときJ2を優勝したんですよ。フォワードは1トップで、選手もそろっていた。そう考えたらわざわざ僕を獲るべきではない時期だった。それでも松本で育ったところと、世代別に入っていたところもあって、(僕を)獲らざるを得なかったという状態だったのかなと思っています」

当時松本のワントップに君臨した高崎さん(Getty Images)

――出戻りでいうと山田満夫選手(現オーストラリア独立リーグ、ウロンゴン・ユナイテッドFC)と近いですね。

「そうですね。ただ僕はちょっと特殊でした。僕が『大学をやめたい』と(言ったことを)聞いて、松本山雅もさすがに他に出すわけにもいかないし、大学側も『松本山雅だったらいいよ』と言っている中で、獲らないわけにもいかなかったのかなと思います」

――当時はモヤモヤされていたんですね。

「そうですね。チームは正直どこでも良かった。最終的にプロになれれば、その舞台に立てればいいかなと思っていました。当時ユースから昇格できなくて悔しくて、じゃあ湘南に行ければと思って産能(産業能率大)を選んだわけですけど」

――当時は大型レフティとしていろいろな媒体で東京五輪出場に期待されていていましたね。

「自信はありましたけど、ただ松本山雅に入って、(プロの)レベルにまだ達していないと痛感させられる毎日でした。試合に出られなかったのも明らかに自分のせいではあったので。

世代別(代表)では点を取れているけど、いざプロの世界に入ってからはすごく厳しいものがあり、現実を目の当たりにした。プロに入ってからは自信はなかったですね」