日本においてサッカージャーナリストの草分け的存在である賀川浩氏が12月5日に亡くなった。
1924年に兵庫県で生まれた賀川氏は、旧制の県立第一神戸中学校(現・神戸高校)時代に全国制覇を達成。戦後、大学や実業団などでプレーしたのち、新聞社で記者となりサッカー報道の第一線で活躍した。
ワールドカップは1974年の西ドイツ大会から2014年のブラジル大会まで計10大会を現地で取材。サッカー界への多大な貢献から、2010年に日本サッカー殿堂の特別表彰、2015年にはFIFA会長賞を受賞していた。享年99歳。
賀川氏の訃報を受け、日本サッカー協会(JFA)も関係者のお悔やみの言葉を発信している。
公益財団法人日本サッカー協会 相談役 川淵三郎氏
「僕にとって賀川さんの思い出といえば1962年12月13日の産経新聞のコラムだ。三国対抗サッカーの真っ最中の12月11日、僕は日本代表の合宿を抜け出して大阪で結婚式を挙げ、その日の夕方の便で東京に戻った。脊椎分離でB代表に落ちていた僕は、翌日のディナモ・モスクワ戦でなんとしても活躍したかった。試合は2-2で引き分けに終わったが、前半44分にゴールを決めた。
試合後に賀川さんに『花嫁にいいお土産ができましたね』と言われ、『ああ、こういうときはそういう発言をすればいいのか』と教えられた記憶がある。当時、新聞に戦評は出てもコラムが載ることは少なかったのだが、翌日の産経新聞には僕のことを書いた賀川さんの記事が掲載され、それがとてもうれしかった。
賀川さんはとても温厚な方で穏やかに取材対象者に話しかける、当時としては稀な記者だった。選手の心情をよく理解されていたのだと思う。厳しい記事も書かれたと思うが、僕の長いサッカー人生の中で賀川さんの記事で不快になったことは一度もない。サッカーを良くしようという思いが第一義にあった。サッカーへの愛情に満ちた、日本を代表するサッカージャーナリスト、それが賀川さんだった。
賀川さんに心からの哀悼の意を表します。」
公益財団法人日本サッカー協会 名誉会長 田嶋幸三氏
「48年前、私が主将を務めた浦和南高校が全国高校サッカー選手権大会で優勝し、賀川さんの記事の中に自分の名前を見て喜んだ思い出がある。
賀川さんは日本のサッカー記者の草分け的存在で、日本代表をはじめ、高校サッカー、大学サッカー、日本サッカーリーグ、Jリーグなど70年にわたって取材された。また、日本がFIFAワールドカップに出場する可能性など全くなかった時代から2014年のブラジル大会まで10回にわたって現地取材された。その功績は世界も認めるところで、2015年にはFIFAの会長賞を受賞された。日本サッカーに携わる者として、また、FIFA理事として誇らしかった。
サッカーがマイナーだった時代から世界のサッカーを僕たちサッカー少年に伝えてくださったことに心から感謝している。
2022年のカタール大会で日本がドイツ、スペインに勝利したことを隔世の感を持ってご覧になったと思うが、2026年大会では新たな歴史をつくりたい。それが賀川さんへの恩返しになると思う。
謹んで御冥福をお祈りします。」
公益財団法人日本サッカー協会 会長 宮本恒靖氏
「賀川浩さんの御冥福をお祈りいたします。
2015年にFIFA会長賞を受賞された後にテレビ番組の企画で対談させていただく機会がありました。当時すでに90歳を越えていらっしゃいましたが、トークは関西人らしいユーモアやウィットに富んでいて、サッカー人としての深い経験や知識から歴史を学ぶことの大切さを学ばせていただきました。当日は予定していた時間があっという間に過ぎてしまったことをよく覚えています。
賀川さんが生涯をかけて伝えてこられたサッカーの素晴らしさを継承していき、さらに日本サッカーを発展させていけるようにみんなで力を合わせていければと思います。」