怪我や移籍決断も…。キャリアの転機となった2年間

©azul claro

横浜F・マリノスのユースで育った齋藤は、2008年にリーグ戦初出場を果たすと、愛媛FCへのレンタル移籍を経て大きく成長を遂げ、日本代表にも選出。屈指の快速ドリブラーとしてその存在を知られることとなる。マリノスで過ごした最後の2シーズンは、斎藤にとってさまざまな形の試練と向き合う時間でもあった。

2016年にはチームの強化方針の違いなどにより、長年横浜F・マリノスを支えてきた中村俊輔が退団。この年に全試合フル出場を果たした中澤佑二の大幅な年俸減が伝えられるなど、混沌の渦中にあった。

齋藤も海外移籍を目指して交渉に臨んだものの、合意には至らず。チーム残留を決断し、背番号10と主将の座を引き受けることとなったが……。9月23日のヴァンフォーレ甲府戦で右膝の前十字靭帯を損傷。全治8ヶ月を言い渡されることとなった。

半年後にロシアワールドカップを控える難しい状況の中、齋藤は移籍を決断。クラブとの目指す方向性やさまざまな思いのすれ違いの末、8歳から在籍した“古巣”を後にすることとなった。