――そして、選手権やプリンスリーグでも結果を残しました。

選手権がベスト8、プリンスがベスト4だったかな。

――過去にも他の選手に同じ質問をしたことがありますが、やはり、Jクラブと戦うプリンスリーグは燃えましたか?

僕らのような雑草の集まりは特に燃えましたよ(笑)。

しかも、僕らの世代って、神戸とかでは「めちゃめちゃヘボい」とか言われていたりしたんですよ。「今年の滝二には勝てるやろ」みたいなことをしょっちゅう言われてました(笑)。

なので、ヴィッセル、サンガなどとの試合は燃えましたね。ヴェルディなど関東勢が相手でもそうでしたが。

――当時は今と比べて「ユースチームは技術的な面で目立っていた」とよく聞きます。

そうですね。本当にユースチームは上手い選手ばかりがいました。

なので、「気持ちだけは絶対に負けない」という感じでいつも戦ってました。

――それからのサッカーキャリアはどのように計画していったんでしょうか。

高校を卒業して大学に行って、プロになって、教員になろうと考えていました。

母子家庭で育ったこともあり、「仕事」そのものがあまりわかってなかったんですよね。

だから、「サッカーをやりながら将来的にはサッカーに携わるという仕事をやれたらな」と考えた時にも自分のアイデアでは教員ぐらいしかなくて(笑)。

でも、サッカーを本気でやっていくにつれて、「サッカーをやりたい、やり続けたい」という意欲が強くなっていったんです。

――では、大学進学も「教員になる」という計画があってのことだったんですね。

「教員免許は取らないといけない」というのがあったので。まぁ、高卒からプロにいけるレベルにはなかったとも言えますが…。結局、サッカー推薦で立命館大学に進みました。

でも、「サッカー選手になりたい」という気持ちは強かったので、在学中は一度も就活とかやりませんでしたね(笑)。

今振り返ると、経験としてやっておいたほうが良かったなぁとは思ってますが(笑)。

――となると、大学生活は「教員免許を取りつつサッカー選手への道を目指す」という毎日だったんですか?

いや、それが…。大学のサッカー部に入ったことでそのプランはまんまと崩れ去りました(笑)。

――え…どういうことでしょう??

実は…。


大学サッカーへの進学を検討中の方は特に必見。まさかの展開で教員免許を諦めた理由とは果たして…。

大分トリニータでキム・ボギョンらと共に戦った時代も振り返る、『Vol.2』も乞うご期待。

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