そのシーズンが終わった時、私にはユヴェントスへ移籍するチャンスがあった。

ところが、リヨンの会長(ジャン=ミシェル・オラス)はそれを拒否した。それは移籍マーケットの締切まであと1週間というところだった。

そしてアンドレ・ヴィラス=ボアス監督(当時)がトッテナムに誘ってくれた。我々はそれに全て合意していたんだ。

しかし、リヨンの会長はまたドアを閉めてしまったんだ。

それから、アンドレ・ヴィラス=ボアスがチェルシーに行ったときにもオファーを貰ったようだ。しかし、それは私のところまで届かなかったんだ。なぜならその時ちょうど代理人がいなかったから。

とても残念だった。そして、2度とヨーロッパではプレーしないと決めたんだ」

(リヨンを離れてからカタールのアル・ガラファ、ブラジルのインテルナシオナウを経て、2016年に古巣のラシン・クラブに戻ってきたね)

「ロベルト・アジャラが監督をしていたときに誘われていたんだが、その時リヨンは600~700万ユーロを求めていた。

私はその時1年しか契約を残していなかった。リヨンはモナコかナポリに売りたかったんだけどね。

ただ、私は2度とヨーロッパではプレーしないと決めていたからね。だから、その後カタールのアル・ガラファに行ったんだ」

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