本田圭佑のミランデビュー戦で私は初めてドメニコ・ベラルディのプレーを見た。
ユーヴェが扱いに苦労するほどの問題児がサッスオーロにいるという事実は知っていたが、ここまで魅力溢れるプレーヤーだったとは、正直思ってもみなかった。そして、私がなおさら嬉しかったのは、彼が“ストライカー”タイプのフォワードだったことだ。私はここ数年間、欧州のフットボールシーンからこのポジションのニーズが少なくなってきていると感じ、悲しみに暮れていた(オーバーな表現ではなく)。だが、この若きイタリア人の怒涛のポーケル(4得点)は、私に数年前とは少し違った景色を見せてくれたように思えた。
ここに2011-12シーズンに私が道楽で書いたコラムがあるので、まずはそれを読んで頂きたい。
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フットボール、この極上のエンターテインメントの社会的ジャンルは”スポーツ”に該当する。点数を競い合って勝敗を決める。このシンプルなルールにある様々な拘束事項が生むものが”種目”だ。世界中にどれほどの”手を使ってはいけない”競技があるか私は知らないが、フットボールの美しさは格別だ。不自由な常識から生まれる奇跡、その現実離れしたような空間自体に、酔いしれる者は決して少なくないだろう。 無論、この戦いにも勝敗はついてくる。フットボールにおいて、ましてやトップクラスの戦いでは”10点差”なんてことは滅多にない。この競技で最も多いスコアは2-1だと昔なにかの本で読んだ事がある。つまり、1点が、更に言えば1秒が、シナリオを大きく狂わせるのだ。あの場面で、あの瞬間で「決めた」、「外した」と、90分間闘うプレーヤー。”ストライカー”というポジションについて、今回は少し私の見解を述べたいと思う。あくまで1つの意見として、適当に読んで頂ければ幸いである。そしてこの話に該当しないクラブが2つあることも、先に述べておこう。アヤックスとバルセロナである。
さて、読者の方々は「ストライカー」と聞いて、どの顔や名前を思い浮かべるだろうか。 私は、3つの名前が浮かんだ。 ロナウド、ルート・ファン・ニステルローイ、そしてガブリエル・バティストゥータだ。私が90年代後半から2000年代初期を愛するファンであることを差し引いても、ここに現役選手の名前がないのは少し淋しくはないか。さすがに3人ではと思って4人目以降を考えても、出てくるのは引退した選手の名ばかりだ。 フットボールの花形である”9番”のポジション。これはどこへ行ってしまったのだろうか。
よりオーガナイズされた近代戦術、これは「守備」の戦術と言い換えることが出来ると思う。ディフェンスラインを高くして、中盤をよりコンパクトにし、スペースを限定する。高い組織的な動きを全員が意識し、敵のバックパスから守備を始めるのだから、なにかをする「だけ」のプレーヤーは必要ないのだ。ここで、1つのポジションが消える。それは、ストライカーではない。「いわゆる」”トップ下”、ゲームを支配し、ボールを散らす。勝負を決める必殺の”10番"が、いなくなったのだ。そして、これの道連れとなったのが、ストライカーではないか。マヌエル・ルイ・コスタやイバン・デ・ラ・ペーニャが引退した今、本来のそれを持つトッププレーヤーはフアン・ロマン・リケルメだけに思える。 だがここで、妙な違和感を感じておられる方がいるはずだ。 ”プレーメーカー”という言葉があるではないか。いかにも、それはご名答である。 つまり、主に”ファンタジスタ”と言われていた者の役割は、1つ隣のポジションに渡されたのだ。アンドレア・ピルロがトップ下からボランチの位置にポジションを変え、”レジスタ”としてブレイクしたことを思い出してもらいたい。シャビ・アロンソや、近年のスティーヴン・ジェラード、ポール・スコールズも分かりやすい見本だろう。中でも攻撃に優れた選手は、サイドのスペースに避難した。メスト・エジルやダビド・シルバであり、ここ数年のカカにも同様のことが言えるのではないか。
話を本題に戻すと、こうして頼もしい”相方”との距離が離れてしまったストライカーたちは、後を辿るように、自分たちのポジショニングを変え、より多くを担うようになっていく。私に言わせれば、現代フットボールの象徴とは、ウェイン・ルーニーのことだ。説明する必要もないかと思うが、彼はストライカーのようなこともすれば、2列目も、そしてはボランチもこなす。試合中に最終ラインでボールを奪取するルーニーを見ても、サプライズではないはずだ。つまり、トップのレベルで、「ポジションの多様化」を体現した。セルヒオ・アグエロやカルロス・テベス、ダビド・ビジャやルーカス・ポドルスキは2列目に入ることが増え、ロビン・ファン・ペルシーは中盤とトップの往復を繰り替えし、ボール回しに絡んでいる。 つまり、フットボールのポジションが、より専門的なものではなくなったのである。 アリゴ・サッキは、ディエゴ・マラドーナを封じるべく「ゾーン・プレス」たるものを生み出した。これが、絶対的な役割というものを奪い、より組織的な、そしてなによりも”強い”チームを作り上げたのだ。 だが、これからもフットボールは変化していくだろう。
4-2-3-1。これが今現在のフットボールシーンの主流だ。相手の中盤の底に移動したゲームメーカーを潰す。これが、現代のトップ下に与えられた1つ目の仕事だ。敵のストロングポイントを潰す。これは自分たちのやり方を極める、という戦い方よりも、果たして「勝利」に近いかは分からないが、確実に、「ドロー」には近い。こうして、より「負けない」フットボールが育まれてきたのだ。 だから私はより一層、あの華やかだった時代とは違う、現代のフットボールの中に出現した「新たな」ストライカーたちの出現が嬉しかった。アラン・シアラーやフィリッポ・インザーギが2列目にいる事が想像出来ないように、彼らのそれをイメージすることは難しい。エディンソン・カバーニやラダメル・ファルカオ、ロベルト・レヴァンドフスキ、そしてそう遠くない未来の、マリオ・バロテッリに期待してしまうのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーー・・・とまあこんな具合であったが(文章力にまるで進化が見られないのが残念)、皆々様はいかがお考えだろうか。
終わりに私の今日の意見を述べさせていただくと、ずばり3バックシステムの復活が、ストライカー復活のカギのひとつではないか、と考えている。サイドバックとサイドハーフをウィングバックのような一つのポジションにまとめることで、攻守にもう一つずつポジションが生まれ、そのひとつを"ストライカー"とする事が増えてきているのではないか。それは数年前のシステムを採用しているからではなく、1度違う時代を経験して生まれた新たな3バックの戦術であるはずだ。そしてそのトップレベルにおける先駆けはヴァルテル・マッツァーリのサンプドリアや、あのナポリだったろう。当時どこかのコラムに『ナポリを見て死ね』と銘打たれたものがあり、深く共感したのを覚えている。3バックは未だに少し、諸刃の剣というか、歯車の噛み合わない時の恐怖感を帯びがちなシステムだが、あのフットボールには他にない魅力、華がある。ロベルト・マルティネスのウィガンも、間違いなく魅力的なフットボールを展開していた。そして(これは完全に私の好みだが)彼らのスカッドに必ず存在したのが、広い視野と確かな技術力を持った必殺の"10番"タイプのプレーヤー。アントニオ・カッサーノであり、マレク・ハムシク(ラベッシが抜けても魅力を失わなかった理由は、彼ではなくハムシクが10番タイプであり、カバーニとプレー出来たから)、そしてウィガンでいえばショーン・マロニーだったはずだ。
ここ1年くらいでは、スペインやイングランドでも3バックを目にすることが多い。マッツァーリの打ち上げた剣は、アントニオ・コンテによって研磨され、欧州のあちらこちらで振るわれはじめている。中には“9番”、そして“10番”もいない3バックシステムがあるかも知れないが、戦術の発信地であるイタリアから広まるトレンドが、既存のものと更に融合し、新たなスタイル、新たな戦術や哲学を持ったクラブが欧州中にいくつも生まれることを期待したい。
ストライカーがいるも良し、いないもまた良し。なにはともあれ、彼らは姿を変えながらも、絶滅することなく過渡期を乗り越えた。というのが現在の私の考えであり、あとは彼らに、彼らが必要なシステムのあるチームでプレーしてくれることを、ただ祈るのみである。そしてもし、その後ろに背番号10が立っているようならば、それはいずれ私のお気に入りチームに加わることだろう。
筆者名:榎本耕次
プロフィール:90年代後半から2000年代初期にかけてフットボールに目覚める。マンチェスター・ユナイテッド一筋。ユナイテッド、プレミアリーグ関連の記事を中心に、自由なトピックで執筆中。一番好きな選手はロベルト・バッジョ。アイドルはデイヴィッド・ベッカム。あまり大きな声では言えませんが、正直圧倒的にイングランド代表を応援しています。なにかあればTwitterアカウント: @KJE_Footballまで。異論反論大歓迎です。
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