【Qolyアンバサダーのコラムニスト、中坊コラムの中坊氏によるコラムをお届けします】
以前のコラムにおいて、現状でヨーロッパ所属日本人選手が200人を超えている件を取り上げた。トータルの多さについても驚きだが、毎年夏・冬合わせて30人近くが海外移籍している現状であり、
「いつからこんなに多くなったのか?」
「いつからJ2から直接海外移籍するようになったのか?」
「いつからJリーグを経由せず高校から直接ヨーロッパへ行くようになったのか?」
等々、ここまで海外移籍が多くなると混乱も大きいため、一度整理しておきたい。
海外移籍の様々なフェーズについて原点から時系列で振り返ることで、新たなサッカーファンにとっては過去の歴史を知る機会にしてもらい、既存のサッカーファンからすれば改めて時系列や転機を確認し、今後の日本サッカー界の行く末について推測する材料にしていただきたい。
※ なお、このコラム内での「海外移籍」は「ヨーロッパクラブへの移籍」を指す。アジアやオセアニアや南米は除いて説明する。
第1回となる今回は、以下の第0期から第四期までをお届けする。
第0期:奥寺康彦・日本人初の海外移籍
第一期:三浦知良の挑戦
第二期:中田英寿の衝撃
第三期:ジャパンマネー・戦力よりも金
第四期:一クラブに日本人が2人在籍
第0期:奥寺康彦・日本人初の海外移籍(1977−)
まずは黎明期であり第一期の前にゼロ時代として、奥寺康彦を取り上げなければならない。彼こそがヨーロッパ移籍の原点であり、長らく頂点に君臨していた。
「東洋のコンピューター」と騒がれ、ドイツにおいて1977〜1986年までケルン、ヘルタ・ベルリン、ブレーメンにて見事な実績を残した。
同時期に韓国のチャ・ボムグンもブンデスリーガに長らく在籍しており、彼ら二人はアジア出身でドイツにて大活躍した盟友であり、お互い顔を合わせた際のインタビューは日本語でも韓国語でもなくドイツ語で行われるほど。
ただ、この奥寺の移籍時点ではまだ日本にプロサッカーリーグはなく、Jリーグ開幕までしばらくの間があくこととなる※。
※ 同時期に風間八宏・尾崎加寿夫らがブンデスリーガに在籍。
第一期:三浦知良の挑戦(1994−)
1993年、Jリーグが華々しく開幕し、そこで国民的知名度を誇ったのはスター軍団ヴェルディ川崎(当時)のエースストライカー、三浦知良。ブラジル・サントスからの逆輸入選手でありヴェルディ黄金期を支えた。
このキング・カズが1994年にセリエAジェノアへ移籍。その海外移籍のポイントは3つ。
●誰もが知っている超有名選手が移籍した
●日本最高の選手が移籍した
●世界最強だったセリエAに移籍した
2020年代になると一般からは全く知られていない選手、それどころかサッカーファンの中でもあまり知られていない選手ですら海外移籍しているが、このカズの移籍は全く異なり、サッカーファンはおろか日本国民の大半が知っている超有名選手だった。
そして日本代表のエースでもあり、当時日本最高の選手だった。そんな絶大なる知名度・実力の選手だけが移籍した、そのレベルの選手じゃないと移籍できなかった※、という第一期。
また、その移籍先が当時世界最強で世界中のトッププレーヤーが集まっていたセリエAだったのも特筆すべき点。5大リーグという括りではなく、本当の世界トップのリーグへ飛び込んだ。
だが、それ故に通用せず、サンプドリアとのジェノヴァダービーで歴史的な得点を挙げたのみにとどまり、一年でレンタル復帰となりヴェルディに戻ることとなった。
※ 同時期に小倉隆史が「留学」という扱いでオランダ・エクセルシオールに在籍。
第二期:中田英寿の衝撃(1999−)
第0期では、まだ日本にプロサッカーリーグがなかった。
第一期では、まだ日本はW杯に出場できなかった。
この第二期では、ついに日本がW杯に初出場を決める(1998年)。
それと共にベルマーレ平塚(当時)から中田英寿がセリエAのペルージャに移籍した(1999年)。
これは第一期の三浦知良とどう異なるフェーズなのか。それは、カルチョの世界で大活躍したことが大きな違いだ。
当時21歳ながら日本代表の主力だった中田は、デビュー戦のユヴェントス戦でいきなり2ゴール。とてつもない衝撃のデビューであり、TV放送での実況・青嶋達也アナは絶叫した。
いつも絶叫しているがこの時は演技ではなく本当の絶叫。解説・ジローラモ氏も「…信じられない!」と声を震わせ絶叫。現地紙ガゼッタやコリエレで採点8.0を叩き出す高評価。
この当時、日本はまだ弱小国であり、かつて挑戦した日本のエース・三浦知良が通用せず早々にセリエAから去ったことも踏まえると、まさか中田英寿がこんな活躍をするなんて想像できなかった時代だった。
「日本人が世界最高の舞台で活躍できるんだ」※というフェーズに至った、大きな転換期である。
※ この後、小野伸二も浦和レッズからフェイエノールトに移籍して2001-02年UEFAカップ優勝のタイトルを獲得。中田英寿もローマに移籍後2000-01年リーグ優勝を成し遂げる。
第三期:ジャパンマネー・戦力よりも金(2002−)
「日本人が全くダメではない、中田と小野の例もあり、活躍する可能性もある、おまけに獲得すれば日本のマスコミに取り上げられるし、日本人にユニフォーム売れるし、日本企業のスポンサーもつく」。
そう、ジャパンマネーを意識した海外移籍時代が始まったのが第三期だ。
2002年日韓W杯を経て、日本でのサッカー人気が爆発したこともジャパンマネーに輪をかけた。
本当に活躍した中田、小野以外にも1999〜2009年にかけて、15名以上が海外移籍。
バジャドリード城、ヴェネツィア名波、アーセナル稲本、ボルトン西澤、トッテナム戸田、ポーツマス川口、サンプドリア柳沢、メッシーナ小笠原、レッジーナ中村俊輔、マジョルカ大久保、ハンブルガー高原、ル・マン松井、マルセイユ中田浩二、グルノーブル大黒、ゲンク鈴木隆行…等々。
上記の中で本当に活躍したと言えるのは、
●ル・マンの松井大輔
●セルティック移籍後の中村俊輔
●フランクフルト移籍後の高原直泰
●バーゼル移籍後の中田浩二
この4名だけ。
日本代表に名を連ねて個人ファンも多く、名も売れていてジャパンマネーを呼び込める選手に目を付け、海外のクラブがオファーをする構図だ。
ジャパンマネー目当てと言われると悲しいが、例えその意図が強かったとしても、この時期は海外移籍を成し遂げた事例がこれだけ起きたのが新たなフェーズ。つまり、それまではジャパンマネーがあったとしても獲得に至らなかった。
中田と小野の活躍もあり、「とりあえずは獲ってみるか」とヨーロッパクラブ側がオファーを出す時代になったのだ。
第四期:一クラブに日本人が2人在籍(2007−)
ヨーロッパの同じクラブで日本人選手が2人在籍、という時代が来た。それが2007年。
フランクフルトで高原直泰と稲本潤一の在籍が被り、スタメンに日本人2名が連ねるフェーズに入った。
前述の第三期で記載した通り、ハンブルガー時代ではそれなりの活躍だった高原はフランクフルト移籍後に日本人初のハットトリックを記録する等、大活躍。フランクフルトの中で日本人の評価が高まり、ガラタサライでプレーしていた稲本を獲得し、日本人が同クラブで2人在籍となる。
この、「先に在籍していた日本人が活躍したことにより、日本人を追加獲得」は高原・稲本以後も増え続ける。翌年の2008年にはセルティックで大活躍した中村俊輔に加えて、ジェフユナイテッド千葉から水野晃樹が加入した。
スコティッシュ・プレミアリーグのフォルカーク戦においては中村俊輔からのパスを受けて水野がゴール。日本人アシスト&ゴールという歴史上初の記録を達成。この時の現地実況は「Made In Japan!」と絶叫していた。
もっとも、この状況は今では全く珍しくない。2022年、フランクフルトがEL優勝した時は鎌田大地と長谷部誠が在籍していたし、ポステコグルー政権時のセルティックは日本人が5人在籍、シント=トロイデンに至ってはスタメンの半分以上が日本人という状況だ。
少し状況が違うが、「日本人の穴を日本人で埋める」という事例まで出てきた。オランダ・AZにおける、菅原由勢・毎熊晟矢の事例である。
2019年に菅原が名古屋グランパスからAZに海外移籍。2019〜2024年の5年間右SBの主力として出場し、2024年夏にプレミアリーグのサウサンプトンへステップアップした。その菅原が抜ける右SBの穴を埋めるべく、移籍直前にセレッソ大阪からAZに獲得されたのが毎熊だ。
日本代表で菅原とポジションを争っていた毎熊は、すぐにスタメンに定着。いきなりMOMに輝くプレーを見せている。