「最後の一線を越えきれないのは、選手とチームとの不適解」
此度のCL準決勝、レアル・マドリードvsバイエルン戦を振り返ると、結局この解答に行き着く。 最後の最後で勝負弱さを露呈する理由を求めれば、これ以上の回答はない。試合終了後の感想は、実に乾いた、虚しさを伴うものだった。端的に言ってしまえば失望だ。
落胆の理由は簡潔極まる。
自分がモウリーニョ・マドリーの歩みに対して、この2年間、抱き続けてきた“違和感”は、事ここに到っても、ついぞ改善されないままであるからだ。
準決勝に勝ち上がった4チームの中でも、マドリーは最も規律・秩序を重んじるチームだろう。
実際、モウリーニョの元では反逆は許されない。どのようなメガクラックであっても、グループの輪を乱すものは、ベンチどころか練習にすら参加を認められない。
マドリーの選手たちは皆、指揮官が白を黒だと言えば、どのような詭弁・方策を用いても全員が白を黒と主張するはずだ。この結束に綻びはない。
ただし――紐そのものの強度、つまり選手のメンタリティ……選手が内々に抱えている感情や思考は、まったく別の問題だが。
「ソウル・フットボール」
人間ジョゼ・モウリーニョへの尊敬・愛情と、指揮官ジョゼ・モウリーニョの掲げるスタイル・システムへの傾倒・趣向は、まったく異なる問題だ。
皆さまにも経験があるのではないだろうか?
人間個人としての魅力に富んでおり、プライベートでの付き合いすら共に楽しめる人物であっても、仕事や日々の営みについては、必ずしもすべてに賛同できる訳ではない――
程度の差はあれ、誰かしら該当する人物が思い浮かぶ、という方は少なくないと思う。
自分が危惧している不安は、こうした問題の延長線上にあるものだ。
話は、実に単純明快。
例えば、現在モウリーニョの下で日々を過ごしている選手たちに、
「今あなたたちがやっているフットボールと、バルセロナに匹敵しうる攻撃的な、激しく攻め続けるフットボール。 あなたがより好むのはどちらですか?」
と聞けば、何人かは言葉に詰まるだろう。
あるいは、何人かはこう返答するはずだ。
「勝利できる方だ」
と。しかしそこで、
「どちらの道のりを辿ったとしても、勝利できる可能性があるとすれば?」
と意地悪く聞き返せば、何人かは必ずばつの悪い顔をするのではないか。
「今現在、ジョゼと共に進めている仕事を選ぶ」
と断言できる選手は、はたして何人いるだろうか――筆者には甚だ疑問である。
モウリーニョ・マドリーの選手たちは、試合中ないし試合終了後に「嬉しそう」な顔を見せることはあっても、「楽しそうに」フットボールを謳歌するような光景は、ほとんど見せてくれない。
勝利を喜んでいることはあっても、「プレーに陶酔し、余計な思考を極限まで切り捨て、フットボールに没頭する」ようなシーンは、果たしてこれまで見られただろうか……?
本心では、心から楽しむことができないスタイルでも、勝つために、試合に出るために、指揮官への敬愛・愛情のために、自らにそれを“課して”プレーする。そんな印象を、言外に受けてしまうプレイヤーがたくさんいる。何人かの選手が、必要以上に暴力的な振る舞いを繰り返してしまう理由の一端も、ここにあるような気がしてならない。
さもありなん。ここは世界で最も攻撃的で、スペクタクルを標榜するクラブの集うリーガ・エスパニョーラ。それも、十分な戦力を整えられない地方の中小クラブとは違う。天下のエル・ブランコ、レアル・マドリードなのだ。世界のフットボールシーンにあって、唯一無二のクラブである。
ともなればこの地に集いしは、数多のクラブ、リーグで勇名を馳せた、一騎当千の超一流選手ばかりだ。この点は今更、改めて語るまでもないだろう。
そんな彼らが、どのクラブでも絶対の存在として扱われ続けてきた面々が、はたしてモウリーニョの課す「肉体労働」を、心の底から受け入れられるかどうか? ボールと遊び、相手を抜き去り、超満員の観客にため息を吐かせる仕事よりも、体を張り、走り跳び、ボールを持たせて奪う作業に、はたして心の底から賛同してくれるのだろうか?
自分にはどうにも、この点が引っ掛かってならないのだ。
理屈では理解できるだろう。勝利の味が、それを納得させてもくれるだろう。だが、心身を極限まで酷使される激戦時には、人としてより本質的なもの、感情や本能的な欲求が、思考や理屈のそれを上回る。脳の働きが落ちてきた際、どのタスクが、どのスタイルをより効率的に遂行できるか?
あるいは、脳をより酷使せずに済むスタイルを普段から遂行しているかどうかが、こうした状況下では極めて大きな差となって現れる。別の言い方をすれば、選手たちの好むスタイル、いわゆるソウルフードならぬ『ソウルフットボール』。
そして、モウリーニョの敷く高度に戦術化された、守備組織の整備を基本骨子としたトランジション・スタイルが、どうにもうまく合致していないのではないか――と、このように見受けられるというわけだ。
理屈を抜きに、思考以上に直感的な嗅覚でプレーを取捨選択しなければならない、極限的な状況。言わば「修羅場」で、モウリーニョ・マドリーが今ひとつ勝ち切れない理由の一端は、ここにあると考える。
「征服する文化と、それに抗う美徳」
ジョゼ・モウリーニョという指揮官を語るためには、この「選手との関係構築術」と、「文化感の醸成」という側面が欠かせない。
チェルシー時代は、ほとんど完璧に近いレベルで、指揮官と選手たちがフットボールを共有していた。
ここでは、将来が有望ながら未だ完成に到っていない、言ってみれば“次世代のスーパースター候補”を掻き集め――言うまでもなく、若かりし頃のフランク・ランパードやジョン・デリーのことだ――共同作業でスタイルそのものを作り上げることで、彼らの自尊心や創造への意欲を満たしたからだ。それも、1クラブだけの流儀に留まるものではなく、プレミアリーグ全体の質そのものを変貌せしめるほど、センセーショナルなものだった。
インテル時代も同様だ。
ここでは、国内では圧倒的な強さで勝利を得ながらも、システムとスタイルの欧州では異国の戦力に悉く煮え湯を飲まされ続けていた “『超』は付けきれない一流選手たち” に、初めて自らのスタイルを、正確には 「自分たちの個性を、最も強力・効果的に発揮できるシステム」 を与えることにより、絶対的な集中力と統制を実現したのである。
イタリアという特異な文化――フットボールという枠に留まらない、まさに『文化』である――と敵対・適応を繰り返しながら、最終的にはこれ以上ない、完璧な結果を残して見せた。
……が、悲しいかな。
スペインにやって来てからのモウリーニョの仕事ぶりは、まったく感心できるものではない。
納得はしよう。理解もできよう。だが、感動が見事にない。
ポルトで、チェルシーで、インテルで見せてくれたような、「その国に新たな文化を創り出す、あるいはその国の文化を読み切って最適解を提示する」ような仕事が、ほとんどまったく欠落している。
手前勝手な偏見と言われてしまえばそれまでだが、筆者はレアル・マドリードのフットボール、否……そこに留まらない、クラブそのものの根幹を成す因子に、「征服」 の二文字があると感じていた。
スペインという多民族国家の首都であるマドリードの地に根を張る、世界で最も特殊なクラブのひとつ。数多のクラブから憎み、恨まれ、そして憧憬と畏怖の念を持って輝き続けてきたのが、エル・ブランコの在り方である。
どれほど奇策を用いようと、闘志と反骨心を持って牙を向けようと、そのすべてを華麗な攻撃的スタイルで蹂躙してきたのが、このクラブの歴史である。そして、その他大勢のクラブは、そうした傲慢極まる支配的なチームに、幾度となく叩きのめされつつも……同時に特別なモチベーションを持って、この「支配者」に挑んでいった。
言ってみれば、このクラブの在り方そのものが、スペインにおけるフットボール・カルチャーの、決定的な要素の一つなのだ。同時に、リーガ・エスパニョーラという戦場に刻んだ最多の優勝回数という記録が、間接的にその正当性を主張する。
筆者は以前、blog内で 「マドリディスタ・アナリスタは何を考えているんだ?」 と口にしたが、この点は一部、自説を訂正し、謝罪しなければならない。
事はマドリディスモだけの問題ではない。スペイン全体で培われてきた、積み重ねられてきたレアル・マドリードそのものの文化と、 「レアル・マドリードと対峙する文化」 という、両方の問題なのではないか。筆者には、そのように感じられてならない。
爆発的な攻撃力、パスワークやテクニックをもって蹂躙される中、数少ないチャンスに賭けて反撃を繰り出していく。そんな戦いであれば、敗北の後にも、確かな満足感・充足感が得られることが多い。
翻って、今のマドリーの戦い方は、言うならば、「焦れて向かってきた相手は、自分の懐で捕まえて、真綿で首を締めあげる。 脅えて自陣に引き籠った相手には、効果的な反撃の機会をほとんど与えてもらえず、じわじわと嬲り殺しにくる」というスタイルである。
さながらそれは、肉食獣が捕獲した獲物の息が絶えるまで、子どものおもちゃのように生命を弄ぶ光景に似ている。そうした戦いの後には、特に敗北した場合、相手には大きな疲労感が残る。清々しさが欠片もないわけだ。まともに殴り合いをしたところで太刀打ちできない、世界ランカーのボクサーを相手にしているのに、玉砕すら許されず、アウトレンジから間合いを保ってポイントを稼がれているような、本当の意味で苦しい戦いを多くのクラブは強いられることになる。
イタリアのプロヴィンチャと、スペインのそれとの最大の違いがここにある。侵略を阻む方法を、耐え凌ぐことを本質的な苦痛としない精神を、守り切ることに対する美徳を――感覚として持てないからだ。
故に。
モウリーニョ・マドリーは、決してかつての白き巨人が受けたような、賛美を手にすることがない。敗者からの共感と、反発という名のムーブメントを起こすことがない。
「どうせ叶わぬなら、真正面からぶつかり、蹴散らされること」
――弱者のそんなささやかな祈りすら、踏み躙って蹴り捨てる。それが今のRマドリーのフットボールだ。
「成熟か、拡充か」
個人的な趣味趣向で言わせてもらえば、モウリーニョ・マドリーのフットボールは美しい。
これ以上ないほどの機能美に溢れている。特に、すべてがツボにはまった時のラインの形成、約束事の徹底はため息をつくほどだ。もう一方の雄、バルセロナのそれよりも、自分にとってはよほど好ましい。
が――ことスペインという地の国民性、フットボール感、文化感を考慮して見れば、勝利を重ねることでベターにはなり得ても、決してベストとして受け入れられることはない。バルセロナのフットボールに対する、周囲からの賞賛と比べてみれば、どちらがよりこの国の価値観に沿ったものなのか? 語るに多くの言葉はいらない。
今のままではこの先10年経っても、モウリーニョ率いるチームが、ここスペインで真の評価を獲得することは叶わないだろう。
……とは言え、モウリーニョによる 「結果だけでなく、相手の心まで白色に塗り潰すが如き征服」 、この可能性が完全に潰えたわけではない。
先日とうとう、4シーズンぶりにリーグタイトルを奪還し、チームの結束はますます高まった。モウリーニョの施工するスタイルに、良かれ悪かれ、多くの選手が慣れてきた頃合いでもあるはずだ。
完成度を高め、チーム原則の遂行が徹底されれば、それだけ新しいことに挑戦できる余裕も生まれる。(逆に、新しい刺激を加えていかなければ、感情的なエネルギー、モチベーションの充足が叶わない)
劇的な改革とはいかなくとも、今まで以上に時間を、手間暇をかけて、一段階上の完成品を提示してくれるというのであれば……そしてその結果、これまで築き上げられてきた美徳以外の、多くの国民が納得し得る新たな「征服・支配」をもたらせるのであれば。
これまで続けてきたことの延長、つまり現在のフットボールの“成熟”だけでも、タイトルは常に計算できる。だが、計算外の事態に対する即応性、120%の力を発揮する爆発力には大きく欠けている。
世界最高のクラブに、世界最高の監督、そして世界最高の選手。ここまでお膳立てが揃っている以上、モウリーニョにはより貪欲に、チームの“拡充”を狙ってもらいたい。根幹部はそのままに、新たな枝葉をつけ、より強力な集団として、白き巨人には光臨してもらいたいのである。
そんな個人的な夢想、希望を拠り所として、来シーズンもレアル・マドリードを追っていきたい。
モウリーニョ本人が契約を全うすることを、長期に渡る仕事を希望したということは、単純な結果の追求に留まらない、より大きな野心があるのだと信じて――
<了>
※選手表記、チーム表記はQoly.jpのデータベースに準拠しています。
筆者名 | 白面 |
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プロフィール | モウリーニョ、インテル、川崎Fにぞっこん。他にはジェノア、トットナム、リヴァプールなんかも贔屓に。選手はもっぱら『クセモノ』系ばかり愛でてます。プライベートでは、サッカー関連のblogや同人やあれこれ書いていたり?とりあえず以後お見知りおきを。 |
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