はじめに

筆者はラテン・アメリカのフットボールが好きですが、ラテン地域の国に行ったことはありません。それを踏まえたうえでお読みいただけると幸いです。

20日、イングランド・サッカー協会(FA)により、リヴァプールのウルグアイ人FWルイス・スアレスに8試合の出場停止と罰金4万ポンドの処分が下った。上位を目指すリヴァプールにとってはあまりにも大きな痛手となるが、これは今年10月15日にアンフィールドで行われたマンチェスター・ユナイテッド戦で、スアレスがセネガル系フランス人DFパトリス・エヴラに対し、スペイン語の"Negro"(=黒)を含め「少なくとも10回」は人種差別的な発言を浴びせたという嫌疑への処分である。スアレスは"Negro"の使用は認めているが、あくまで「文化的な違い」であると人種差別を否定。リヴァプールも聴聞会に言語専門家を呼び、無実の証明に懸命になったが認められなかった。近年、FIFAが人種差別撲滅キャンペーンを展開しているだけにさほど驚きもしない結果だが、これはスアレスがまだアヤックスに在籍していた昨年11月、相手選手に噛み付いたことで処分された7試合よりも多い、かなり重い処分と言えるだろう。

しかし、処分までこれほど時間を擁したのはスアレスが自身の育ったウルグアイ、もしくはラテン・アメリカ地域とエヴラ(含む欧州一般)の「文化的な違い」に言及したためである。もしかするとそれは単なる言い逃れで真実はスアレスの個人的な問題なのかもしれないが、「文化的な違い」とは何か。今回はラテン・アメリカ地域における人種差別意識に焦点を絞り、その問題点を探ってみた。


処分の発表後、スアレスは自身のツイッターでこのようにコメント

ラテン地域にある程度精通していればすぐに分かることだが、彼らは"愛称"をよく使う。これはスペイン語圏の中南米、ポルトガル語圏のブラジルとも共通して同じ名前が多いことがあるだろう。特にブラジルでは愛称をそのまま登録名に使用するのはごく日常的なことで、神様ペレもジーコも本名ではない。“小さなロナウド”を意味するロナウジーニョ(大きな、の場合は“ロナウドン”となる)や、このたびクラブW杯で来日したサントスのガンソは“ガチョウ”を意味する名だ。スペイン語圏では今回、問題になった"Negro"をはじめ、アルゼンチン出身でキューバの革命家“チェ”・ゲバラが若い頃に呼ばれていた"Chancho"(=豚)、"Flaco"(=痩せっぽち)など、日本をはじめ、世界の各地域なら侮蔑と受け取られてもおかしくない表現が多数存在するが、ゲバラはそれをむしろ好んで使用していたし、彼らの社会ではその愛称をアナウンサーですらそのままテレビで使用する。


ガンソ

チェ・ゲバラ

その例として、アルゼンチン代表とボカでプレーしたウーゴ・イバーラはその褐色の肌から"Negro"として親しまれた。また、“中国人”を意味する"Chino"の代表的な選手と言えば、ウルグアイ代表のレジェンドでもあるアルバロ・レコバが挙げられる。サッカーに限らず、ラテン地域に行った日本人は皆、一様に"Chino"口撃に遭う。彼らラテン・アメリカ人にとってアジア系の容姿をしたものは皆"Chino"であり、例え「自分は日本人だ」と反論しようがお構いなし。現地に長く住めば次第に反論するのも面倒になり、受け入れていくのだという。そんな経験をしながらも長年ラテン人と接する日本人は皆、「彼らには悪気はない」と口を揃える。それは今年、クラブW杯用に撮影され、人種差別的と批判されたサントスのポスターであってもだという。果たしてそうなのだろうか?


イバーラ

レコバ

彼らの言い分を要約するとこうだ。「ただ、見たままを表現しているだけ」「自分の息子にだってデブとか普通に使う」「むしろ親しみを込めた愛情表現であり、差別的な意味や悪意は一切ない」「文化の違い」「過剰に反応し過ぎる必要はない(むしろ反応するほうがおかしい)」。確かに、往々にして“人権団体”などはその存在がむしろ差別を助長するということはよくある話であるし、個人的にも黒人に対する保護はやや過剰であると感じることがある(実際、今回の問題でも、エヴラがスアレスに「俺に触るな南米人」と言ったことを主審は証言しているが、あまり取り上げられていない)。日本は1つの表現で「セクハラ」「イジメ」と取られたり、また、発言1つで首相や閣僚が辞任に追い込まれる、文化的にも習慣的にも言葉に厳しく、見方によれば繊細に反応し過ぎる国である。昨今ではヘイトスピーチといった言葉を時折見かけるが、厳しい現実の世界ではそういった言葉1つ1つで傷付いていては生きていけないし、無くす努力以上に我々はもっと逞しくなる必要がある。彼らのように、傷付くことを恐れて言葉を制限するよりオープンに、むしろぶつかり合ったほうが個人としても社会としても良いのかもしれない。それは筆者も賛同できる部分ではある。

他方、世の中がいわゆるグローバルに、国際化が進むなかで修正を余儀なくされた、淘汰されてきたものは言葉に限らず幾らでもある。これは国際化に限らず、社会が成熟していくうえでも起こり得ることだが、もし、例えそれまで常識的に思われていたものでも、それが間違ったこと、誰かを傷付けたりするものであるなら止めるべきであり、それが文明的な社会の発展である、という考えである。日本でも例外なく、それは良くない表現だ、と言われてきたものはやはり社会的に淘汰されてきた。「文化の違い」とは双方の理解があって初めて成立するものであり、ラテン地域だけ特別扱いされるものではない。そして、今回、文明としてもフットボールとしても歴史あるイギリスの地で、スアレスは重い処分を受けた。スアレスは、ラテン地域に住む人間はこれをどう捉えるべきだろうか?

筆者はこの決定が下されたからといってどちらかが悪でどちらかが正しいなどと言うつもりはない。仮にラテン社会の考えが多数を占めればそれが正義となるし、その逆もまた然りである。しかしながらおそらく現時点では多くの、より“文明的”とされる社会を持つ国では特に、彼らの慣習を今回の判決のように受け入れないだろう。国際化という時代の流れに沿い、そういった表現を減らしていくのか、彼らの言い分をむしろ世界に広めていくのか。どちらも長い時間を擁するが、後者の実現は途方もない夢のように思える。どちらにせよ、現在の世界では、自分達のそういった表現が他国では簡単に受け入れられていないことを自覚する必要があるし、彼らの社会に住む外国人に対しての表現もそれを踏まえたうえで使用するか判断すべきであろう。そうでなければ、今回起きたことは何度でも繰り返されてしまう。そして私たちもまた、ラテン人のこういった慣習についてただ批判的に見るのではなく、より深く知ろうとすることが大事であろう。我々は歴史から教訓を得るべきである。

(筆:Qoly編集部 H)

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